長嶺さん、大丈夫ですか?
 急いで自分の靴を履き、長嶺さんが「待って!」と引き留めようとするのを、聞かなかったことにして、


「お邪魔しました!」


 そう叫ぶと玄関のドアを開け、眩しい朝の光から目を逸らしながらアパートの階段を駆け下りる。

 私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、長嶺さんが追いかけてくる気配はない。

 無我夢中で駅に向かって走っていると大通りの国道に空車のタクシーが見えて、呼び止める。

 急いで乗り込んでヒューヒューと喉を鳴らしながら、自宅アパートがある住所を運転手に告げた。


 扉が閉まり、ゆっくりと発車したタクシーの後部座席の窓から、昨夜駅から長嶺さんの家までの、手を繋いで歩いた道が見えた。


 現実だ

 全部夢じゃない

 紛れもなく現実



「なに、してるの、私……」



 まだ肩で息をする私の、口からこぼれた小さな声は、車のエンジン音にかき消された。



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