ミレイと不思議な鏡の国
ぼんやりしていると、ステラが言った。
「来て……見せてあげる」
ステラはのんびりとした所作で、ふわふわと外に出る。
「きっと驚くよ! ステラはとってもすごいんだから!」
ナノが黒々とした瞳に星を閉じ込めて言った。
「どこに描くの?」
外に出て、ステラに訊ねる。
周りを見ても、キャンバスらしきものはない。ステラは乗っていた筆から降りると、その筆で空中になにかを描いた。光のラインがきらきらと瞬き出し、大きな大樹の絵が生まれる。
「あなた……絵の具持ってる……」
「絵の具? そんなのないよ」
「あ、それじゃない?」
ナノが海鈴の持っていたビニール袋を指した。中にあるのは、牛乳と板チョコだけ。ナノはどちらのことを言っているのだろう。
海鈴が牛乳を手に取ると、
「それ……ちょうだい」
ステラが筆を構えた。
パックの蓋を開けて差し出すと、ステラはひとかけらの板チョコと筆をその中に突っ込んだ。白と茶色がパックの中でとろりと混ざる。そして、パックの中に落とした筆をもう一度空中に乗せた。すると、大きな大樹に、今度は色がついた。
「あなたは……白。うん、白い木なのね……」
筆が大樹を白く染め上げていく。ステラが描いた大樹は煌めき出し、むくむくと大きくふくらみ、やがて本物の巨木になった。雪のような葉が生い茂り、風にさわさわと揺れる。
「わ……すごい。本物の木だ。本物の木になった!」
あっという間に、ステラの家よりも大きな木が生まれてしまった。
「これはあなたの木……これからどんどん大きくなって……きっとあなたを導いてくれる……」
「私の?」
「うん……」
ステラは柔らかく笑った。
そのときだった。どこからともなく、ゴーンと大きな鐘の音が鳴り響いた。ハッとして、海鈴はつぎはぎの空を見上げる。
「もしかして、時間切れ?」
それはまるで、シンデレラの魔法が解ける十二時の鐘のように。振り返った瞬間にキラリと小屋の窓が光ったかと思えば、やはり海鈴は意識を失っていた。
世界は不思議に満ちている。
そして、そんな不思議には必ず理由がある。
どんなにくだらないことにも、必ず。起こったできごとには、なるべくしてなったその原因があるのだ。けれど、その原因は毎回はっきりしているわけじゃない。
曖昧なときもある。たとえば、水の中に落ちた硝子の破片のように。たしかにあるのに、水に同化して隠されて見えなくなる。
そんなとき、不思議は生まれる。
人の心は分からない。昨日の良い人は今日は悪人だったり、誰かにとっては善人でも、別の誰かにとっては最強最悪の悪人だったりする。
ならば、昨日まで道に迷っていた人が、今日突然に道標を見つけてもいいはずなのに。
ひとりぼっちの人間に、今日突然友達ができたっていいはずなのに。人生は、そう上手くはいかないものだ。
夏休みだというのに制服を身にまとった海鈴は、学校脇の坂道を登っていた。フェンス越しに聞こえる、吹奏楽部の楽器の音や、金属バットが玉を打つ音。青春を謳歌した声たちに、海鈴の心にどんよりとした雲がかかった。
俯きついでに手の中のスマホを確認する。今朝、ご丁寧なことに三条女史からメッセージが入っていたのだ。
『本日十時、美術室だぞ。絶対にサボるなよ』
夏休みの学校は部活の生徒しかいない。校庭は騒がしいが、校舎の中は静かなものだった。ひとつの靴音だけを響かせながら階段を上がっていく。誰もいない教室を横目に進み、突き当たりの美術室に入る。
黄ばんだカーテンが、天女の羽衣が翻るように柔らかな光をまとってなびく。
海鈴は息を呑んだ。人がいた。光が照らした横顔は、彫刻のように整っていた。長い睫毛が縁取った瞳は、じっと一点を見つめている。ほんの少し悲しげな色をまとう鷹色の瞳。男らしさのある喉元、首の筋、骨ばった大きな手。
それは、大きな大きな真っ白なキャンバスに描かれた、知らない誰かの絵だった。
「あ、もしかして、今日参加予定の学生さんかな?」
背後から声をかけられ、ハッとする。振り返ると、見知らぬ白衣の男がいた。その人は、キャンバスの中の青年によく似ていた。
「あの……私、三条女史……じゃなかった、三条先生に今日ここに来るように言われて。飛鳥海鈴なんですけど」
「あぁ、聞いてるよ。君が飛鳥さんね。俺は絵画教室の講師、天城湊。よろしくね」
三条女史から、一体なにを聞いているというのだろう。しかし、年上の男性と話したことがほとんどない海鈴に、それを訊ねる勇気はなかった。
湊はかすかに首を傾けて、海鈴を見つめたまま黙り込む。海鈴はハッとして、慌てて頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……って、絵画教室?」
「そう。夏休みの毎週月曜日、美大を目指す三年生向けに絵画教室を開くんだ」
海鈴は困惑した。海鈴は美術部でもなければ、美大を目指しているわけでもない。そんな海鈴を、なぜ絵画教室なんかに呼んだのか。三条女史の考えていることがさっぱり分からなかった。
「あの……私、絵なんて全然で……」
海鈴が青ざめながら言うと、湊はくすりと肩を揺らして笑った。
「うん。それも聞いてる」
じゃあ、なぜ呼び出したのだ。
「でも、見るのは好きでしょ?」
湊は男臭くないさらりとした声でそう言うと、美術室の入口で立ち止まる海鈴の横をすり抜けた。
「ま……まぁ……」
海鈴は赤く染まった頬の熱を冷ますように、両手で顔を覆う。湊から視線を逸らすと、その先には大きなキャンバスがあった。湊とよく似た、半裸の青年の絵だ。
海鈴の視線に気付いた湊が言った。
「どんな絵に興味がある?」
湊がもう一度訊ねた。海鈴は小さく口を開く。
「どんな絵って言われても、よく分かんないですけど……でも、なんだかこの絵はすごくザワザワします」
「ザワザワ? それは初めて言われたな」
湊は小さく吹き出した。
「あ……すみません」
「いや、いいよ。すごく参考になる」
「来て……見せてあげる」
ステラはのんびりとした所作で、ふわふわと外に出る。
「きっと驚くよ! ステラはとってもすごいんだから!」
ナノが黒々とした瞳に星を閉じ込めて言った。
「どこに描くの?」
外に出て、ステラに訊ねる。
周りを見ても、キャンバスらしきものはない。ステラは乗っていた筆から降りると、その筆で空中になにかを描いた。光のラインがきらきらと瞬き出し、大きな大樹の絵が生まれる。
「あなた……絵の具持ってる……」
「絵の具? そんなのないよ」
「あ、それじゃない?」
ナノが海鈴の持っていたビニール袋を指した。中にあるのは、牛乳と板チョコだけ。ナノはどちらのことを言っているのだろう。
海鈴が牛乳を手に取ると、
「それ……ちょうだい」
ステラが筆を構えた。
パックの蓋を開けて差し出すと、ステラはひとかけらの板チョコと筆をその中に突っ込んだ。白と茶色がパックの中でとろりと混ざる。そして、パックの中に落とした筆をもう一度空中に乗せた。すると、大きな大樹に、今度は色がついた。
「あなたは……白。うん、白い木なのね……」
筆が大樹を白く染め上げていく。ステラが描いた大樹は煌めき出し、むくむくと大きくふくらみ、やがて本物の巨木になった。雪のような葉が生い茂り、風にさわさわと揺れる。
「わ……すごい。本物の木だ。本物の木になった!」
あっという間に、ステラの家よりも大きな木が生まれてしまった。
「これはあなたの木……これからどんどん大きくなって……きっとあなたを導いてくれる……」
「私の?」
「うん……」
ステラは柔らかく笑った。
そのときだった。どこからともなく、ゴーンと大きな鐘の音が鳴り響いた。ハッとして、海鈴はつぎはぎの空を見上げる。
「もしかして、時間切れ?」
それはまるで、シンデレラの魔法が解ける十二時の鐘のように。振り返った瞬間にキラリと小屋の窓が光ったかと思えば、やはり海鈴は意識を失っていた。
世界は不思議に満ちている。
そして、そんな不思議には必ず理由がある。
どんなにくだらないことにも、必ず。起こったできごとには、なるべくしてなったその原因があるのだ。けれど、その原因は毎回はっきりしているわけじゃない。
曖昧なときもある。たとえば、水の中に落ちた硝子の破片のように。たしかにあるのに、水に同化して隠されて見えなくなる。
そんなとき、不思議は生まれる。
人の心は分からない。昨日の良い人は今日は悪人だったり、誰かにとっては善人でも、別の誰かにとっては最強最悪の悪人だったりする。
ならば、昨日まで道に迷っていた人が、今日突然に道標を見つけてもいいはずなのに。
ひとりぼっちの人間に、今日突然友達ができたっていいはずなのに。人生は、そう上手くはいかないものだ。
夏休みだというのに制服を身にまとった海鈴は、学校脇の坂道を登っていた。フェンス越しに聞こえる、吹奏楽部の楽器の音や、金属バットが玉を打つ音。青春を謳歌した声たちに、海鈴の心にどんよりとした雲がかかった。
俯きついでに手の中のスマホを確認する。今朝、ご丁寧なことに三条女史からメッセージが入っていたのだ。
『本日十時、美術室だぞ。絶対にサボるなよ』
夏休みの学校は部活の生徒しかいない。校庭は騒がしいが、校舎の中は静かなものだった。ひとつの靴音だけを響かせながら階段を上がっていく。誰もいない教室を横目に進み、突き当たりの美術室に入る。
黄ばんだカーテンが、天女の羽衣が翻るように柔らかな光をまとってなびく。
海鈴は息を呑んだ。人がいた。光が照らした横顔は、彫刻のように整っていた。長い睫毛が縁取った瞳は、じっと一点を見つめている。ほんの少し悲しげな色をまとう鷹色の瞳。男らしさのある喉元、首の筋、骨ばった大きな手。
それは、大きな大きな真っ白なキャンバスに描かれた、知らない誰かの絵だった。
「あ、もしかして、今日参加予定の学生さんかな?」
背後から声をかけられ、ハッとする。振り返ると、見知らぬ白衣の男がいた。その人は、キャンバスの中の青年によく似ていた。
「あの……私、三条女史……じゃなかった、三条先生に今日ここに来るように言われて。飛鳥海鈴なんですけど」
「あぁ、聞いてるよ。君が飛鳥さんね。俺は絵画教室の講師、天城湊。よろしくね」
三条女史から、一体なにを聞いているというのだろう。しかし、年上の男性と話したことがほとんどない海鈴に、それを訊ねる勇気はなかった。
湊はかすかに首を傾けて、海鈴を見つめたまま黙り込む。海鈴はハッとして、慌てて頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……って、絵画教室?」
「そう。夏休みの毎週月曜日、美大を目指す三年生向けに絵画教室を開くんだ」
海鈴は困惑した。海鈴は美術部でもなければ、美大を目指しているわけでもない。そんな海鈴を、なぜ絵画教室なんかに呼んだのか。三条女史の考えていることがさっぱり分からなかった。
「あの……私、絵なんて全然で……」
海鈴が青ざめながら言うと、湊はくすりと肩を揺らして笑った。
「うん。それも聞いてる」
じゃあ、なぜ呼び出したのだ。
「でも、見るのは好きでしょ?」
湊は男臭くないさらりとした声でそう言うと、美術室の入口で立ち止まる海鈴の横をすり抜けた。
「ま……まぁ……」
海鈴は赤く染まった頬の熱を冷ますように、両手で顔を覆う。湊から視線を逸らすと、その先には大きなキャンバスがあった。湊とよく似た、半裸の青年の絵だ。
海鈴の視線に気付いた湊が言った。
「どんな絵に興味がある?」
湊がもう一度訊ねた。海鈴は小さく口を開く。
「どんな絵って言われても、よく分かんないですけど……でも、なんだかこの絵はすごくザワザワします」
「ザワザワ? それは初めて言われたな」
湊は小さく吹き出した。
「あ……すみません」
「いや、いいよ。すごく参考になる」