ミレイと不思議な鏡の国
 ――泡が弾けた。
 ミレイは銀色の鉛の腹の中で、ゆっくりと瞬きをする。嗅ぎ慣れたビロードの腰かけの匂い。見慣れた星屑が舞う花畑。隣には、見覚えのない男が立っていた。仮面の奥の鷹色の瞳が、じっとミレイを見下ろしていた。

「あら、あなたは?」

 ミレイは通りすがりの人に挨拶をするかのごとく、ごく自然に車掌の格好をした仮面の男に訊ねた。

「……僕はレイン。星の案内人」

 レインと名乗った仮面の男は小さく答える。
「そう。初めまして、レイン。あなたって、私のタイプらしいわね」

 ミレイの口角が上がっていく。レインは言葉を発さないまま、視線を窓の外に移した。

「海鈴ったら、のんびり屋さんにも程があるわ」

 ミレイは頬杖をつきながら、車窓の外を眺める。窓の向こうは、雨が降っていた。音もなく、世界を灰色に包んでいる。

「とうとうこの世界もおしまいなのね……」

 ミレイは、海鈴の声によく似たしっとりとした声で呟いた。その声に、特に悲しげな感情は籠っていなかった。レインはただじっと、濡れていく世界を見つめている。

 視界の限りを、水が満たしていた。世界全体の水かさが増していた。

「間に合うといいけれど……」
 ミレイの長い睫毛が、憂い気に震えた。

 夜の学校は、昼間の顔とはまるで違う。夜だからといって特になにがあるというわけでもないのに、なぜこうも不気味なのだろうと、海鈴はいつも思っていた。

「あっ、海鈴来たー! こっちこっちー」
 裏門からこっそりと忍び込み、広い中庭に入ると、人影がふたつ。ゆっこと翠だった。

「ちょ、声がデカい!」

 翠がたしなめる。翠の手には、大きなビニール袋が握られていた。

「こんな時間に呼び出してなに?」

 海鈴が駆け寄ると、ゆっこがにやりと笑う。
「青春よ、青春!」
「高校最後だしな、弾けよーぜ」
 ゆっこも翠も、にまにまと悪い顔をしていた。

 小さな火が爆ぜるたび、パチパチと耳障りのいい音が鳴る。紺色の帳が落ちた静かな学校。その中庭で、なみなみに水が入ったバケツを二つ置き、持ってきた大きな袋の中の紙をライターに近づける。
 着火すると、その紙は激しくも美しい花となって弾け出す。海鈴はしゃわしゃわと爆ぜる光のシャワーを掲げながら、翠を見た。

「翠、勉強は大丈夫なの?」
「たまには息抜きも必要だろ」

 海鈴は、あっという間に勢いを失っていく光の花束をバケツにぼちゃんと浸した。淡々と次の紙を握り、火をつける。

「ゆっこもバイトあるって言ってたのに、平気?」
「うん。今日も、昼間はちゃんと働いてきたよ。でもさ、やっぱり高校最後だし、夏らしいことしたいじゃん? 来年はきっと、もうこんなふうに三人で会えなくなるんだろうしさー」

 ゆっこのひとことに、海鈴の瞳が曇る。

「そっか……来年は、もう皆バラバラなんだね」

 ただの事実を言ったつもりだったのに、やはり落胆の色は隠せなかった。すぐ隣で花火に火をつけていたゆっこが、海鈴の肩に触れる。

「あ、そういえば、絵画教室だっけ? 行ってるって聞いたけど。海鈴、絵なんて興味あったっけ?」
「いや、まったく。でも、先生の絵がすごく綺麗でね……」

 すぐ隣にいた翠の肩がぴくりと反応した。

「それならいっそのこと、美大目指しちゃえば?」
「無理だよ。絵心なんてないし……でも、ちょっと楽しいんだ」

 わずかな光に浮かび上がった海鈴の頬が、さっと朱色に染まる。

「そうそう。その先生が現役の美大生で、イケメンなんだって?」
「えっ!? ど、どうしてそれ……!?」

 ハッとして口を噤んだときにはもう遅く。ゆっこはにやりと笑っていた。口が滑った。嫌な予感しかしない。

「恋か!? 恋してるのか!? うりうりー」
「ちょ、違うから! やめてって」

 ノリがウザい。とてもウザい。

「いやぁ、ようやく来ましたか。海鈴にも春が……ねぇ、翠? あんたの娘もとうとう旅立つときが来たようよ」
「そうだなぁ……お前も大人になったんだな……」
「違うから」

 翠まで、隣でほろりと感慨深そうに大きく頷いている。二人はいつから海鈴の保護者になったのだろう。

「たしかに湊先生はかっこいいし優しいけど……べつに、それだけだよ」
「ふうん。湊先生って言うんだ。海鈴の好きな人は」
「だから違うって!」

 ゆでだこのように真っ赤な海鈴を、宥めるようにゆっこが言う。
「分かった分かった。でもさ、恋ってドキドキワクワクするでしょ?」
「し、知らないよ! そんなの」

 最後まで否定してみても、耳に集まった熱が冷めることはなさそうだった。まるで、悪いものでも食べたあとのような胸のもやもや。ぼんやりする思考と、ふわふわとした高揚感。とても気持ち悪いと思うのに、海鈴はなぜだか、その感覚が嫌ではなかった。

 でも、同時に思う。彼は多分、海鈴には届かない人だ。だって彼は大学生で自分よりずっと大人だから。

「恋が甘いなんて言ったの、一体誰なんだろうね……」
 きっと、恋とは絶望のことを言うのだ。
「お前はまた詩的なことを」

 苦笑混じりの声がした。顔を上げると、翠の苦笑した顔と、ゆっこの優しい笑顔があった。その顔に合点がいく。どうやら、心の声が口から漏れていたらしい。

「あ、ごめん。ひとりごと」
「いやいいよ、べつに」
「お前ってなんか、やっぱ変わってるよなー。考え方が独特っつーか」
「言葉選びもなんとなく私たちとは違うよね」
「いきなりなんなの、二人して」
 ようやく冷めてきたはずの熱が、またぶり返す。
「褒めてんのか貶されてんのか分かんないんだけど」
「貶してねぇだろ。俺が言いたいのはただ、お前は独創的ってことだよ」

 翠のそのひとことは、海鈴の心の奥にあるなにかの線に触れた気がしたけれど、子どもの海鈴にはまだよく分からなかった。

 藍色の緞帳が下りた裏の世界でも、物語は変わらず進んでいく。地球という舞台の上に立った海鈴たち三人の物語は、ひどくちっぽけだ。もし、明日この三人のうちの誰かがいなくなったとしても、この暗い空は同じ時間にやってくるし、変わらず学校もあって、ご飯を食べて、そうして新しい一日が始まるのだろう。

 人にはそれぞれ、役割があるという。世界を動かす人、経済を回す人、法律を整備する人、病気を治す人。

 それならば、自分たちは一体、なんのために生きているのだろう。海鈴にはなんの役割があるというのだろう。

 ふと、ナノとステラの笑顔が過ぎった。

 ナノの黒々とした輝く瞳と、大きなとんがり帽子を抱くステラの小さな手。仮面の車掌は、帰れと言った。この世界は海鈴がいるべき場所ではないと言った。

 あれから、鏡の前に立ってもミレイが出てくることはない。もう、あの世界へは行けないのだろうか。二人とは、もう会えないのだろうか。

 凪いだ海のように平坦だった海鈴の心は、深い深い海の底に沈んでいくように暗くなっていく。

「私って……子どもなのかな?」

 まるでリトマス紙。誰かの回答がなくても、答えははっきりとしている。
「……海鈴、なんか嫌なことあったの? 話聞くよ?」
 ゆっこが心配そうに眉を寄せる。

「……いや。なんていうか……友達がさ」
「友達?」
 顔を見合わせる二人に、ハッとした。
「あ、ネットの。ネットの友達と、いきなり連絡が取れなくなっちゃって……寂しくてさ……」
「急に? それは心配だね」

 ミレイは、あの世界を不安定な世界だと言った。
 時計の音が響けば強制終了。目が覚めれば欠片の名残もなく、面白みのない現実に戻る。
夢だったらよかった。夢なら、こんなに寂しい気持ちにならなかったはずなのに。

 そのとき、視界の隅がきらりと光った。

「誰だ?」
 突然声が響き、心臓が跳ねる。
 手に持っていた青春の残骸が、びくりと震えた。
「って、なんだ。お前らか」

 気だるげな声。伸びた雑草を踏む乾いた足音。懐中電灯を閃かせて中庭に来たのは、海鈴たちの担任教師・三条女史だった。

「先生!」

 なるべく音を立てないように遊んでいたのに、見回り当番だったらしい三条女史に見つかってしまった。

「ったくお前ら……卒業前になにやってんだ」
 怒られるかと思いきや、三条女史は呆れた声を漏らすだけだった。

「あちゃーバレちゃった。すみませーん」
「先生、こんな時間まで学校にいたんですね」

 翠が訊ねると、三条女史は苦笑した。
「まぁな。大人はやることがいろいろあるんだよ」
「大変ですね」

 翠の労いに、三条女史はあっさりとした声で言い放つ。

「ま、それが仕事だ。……それよりお前ら、なんでわざわざ学校でやるんだよ。怒られるってわかってただろー? やるならバレないようにやれって」
「だって夜の学校とかわくわくするし! 先生も一緒にやりましょうよ!」

 ゆっこは共犯作戦を目論んでいるらしい。
そのとき、
「――あれ、飛鳥さん?」

 澄んだ声に、海鈴の心臓が飛び跳ねる。夜の影に紛れていたのは、湊だった。三条女史の少し後ろに静かに佇んでいた湊は、驚いた顔をして海鈴を見ていた。

「湊先生……どうしてここに?」

 なぜ、教師でもない湊が夜の学校にいるのだろう。三条女史と二人で肩を並べて。

 分かりたくない。でも、分かってしまった。すべての疑問が、ひとつの終着点に辿り着いた気がした。

 胸が錆びた金属のような悲鳴を上げる。ちらりと横にいた翠を見ると、不機嫌そうな顔で二人を見ている。

「これから三条先生と飲みに行く予定なんだ」
「え、二人で?」

 ゆっこが二人を見比べる。すると、二人は少しだけ気まずそうに顔を見合わせると、さっと目を逸らした。
「あーまぁな」

 あぁ、と、海鈴は息を吐いた。なるほど、湊と三条はつまりそういう仲なのだ。二人の雰囲気に翠もそれを感じ取ったのか、静かに息を呑んでいた。

 しかし、静寂が訪れたのは一瞬で、
「少しくらいいいじゃないですか! 先生も一緒に思い出作りましょ!」

 空気を察したゆっこが明るい調子で言った。相変わらず優しいゆっこに、自然と口元が綻ぶ。

「おいこら、私たちまで巻き込むな。ダメに決まってんだろーが! 子どもはさっさと帰れ」

 海鈴は、三条女史を見る。見慣れた顔だ。薄茶色のシャツと、夜と同じ色のパンツ。普段から特別着飾ることのない担任教師は、ハッキリとした美しい顔立ちをしている。
 海鈴は、今さら三条女史のことを綺麗だと思った。

 その隣で微笑む湊は、夜目でも眩しいほど輝いて見えた。恋は盲目とよくいうけれど。それはこういうことなのかと、海鈴は十七歳にしてようやく思い知った。

 これまでずっと、子どもでいたいと思っていたはずなのに。
心が碎ける音がする。とうとう自分の居場所は、もうどこにもなくなってしまったような気がした。
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