ミレイと不思議な鏡の国
長テーブルを間に挟み、海鈴は三条女史と向かい合っていた。四畳ほどの面談室の空気は、驚くほど重い。
その重い空気の正体は、他でもない海鈴が持ってきた白紙の進路希望調査表だった。紙っぺら一枚のそれは、菌床栽培でもできるのではと思えるほど陰気な空気を放っている。
海鈴の白紙の進路希望調査表を見るやいなや、ずっとしかめっ面をしていた三条女史が、とうとう口を開く。
『これはなんだ?』
低い声で、且つ男のような口調で三条女史は海鈴に訊ねた。
『えっと……ハハ』
とりあえず圧がすごい。
『お前、状況分かってるか? もう高三の夏休みなんだよ?』
海鈴の返答に、呆れた顔をする三条女史。
『それは分かってるんですけど……』
『受験はまだ先でも願書は締切があるし、そもそもオープンキャンパスに参加していない学生は受験させてくれない学校だってある』
そんなことを言われても、なりたいものもやりたいことも見つからないのだから、どうしようもない。
『大学のオープンキャンパスは調べてるか?』
『いえ……まだ学部も決まってないので』
『就職にしろ進学にしろ、時間がない。オープンキャンパスは行くだけでも発見があるものだよ。どこでもいいから行ってみなさい』
『はい……』
海鈴は、小さな体をさらに小さく丸め、頷いた。
『飛鳥、あのな。大学はなにも学部で将来が決まるわけじゃない。むしろ、なりたいものが分からない子が行くところなんだ。お前は読書が好きだろ? 文学部とかはどうだ?』
『文学部かぁ……』
あまりピンとこない。
『とにかく、この休み中にしっかり考えること』
海鈴は立ち上がり、三条女史に軽く頭を下げると、逃げるように扉を開けた。
『あ、そうそう。飛鳥には特別課題を出すから』
帰り際、三条女史はダメ押しの一手を繰り出した。
『来週から、毎週月曜日の朝十時に必ず美術室に来ること』と。
来週から海鈴の高校は夏休みに入る。海鈴は特進クラスでもトップの成績だ。それなのに進路が決まらないからといって補習の生徒に混じって学校に来いとは、とんだ災難だ。
『返事は?』
『……はい』
三条女史に睨まれ、海鈴の背中を冷汗が流れたのは言うまでもない。
回想が終わり、海鈴はさらに気を落とした。
「うわぁ、特別授業とか可哀想……」
ゆっこが哀れむように海鈴の頭を撫でてくれる。
「なにそれ、羨ましい」
「羨ましくない。最悪」
思い出しただけでも頭が痛くなってくる。
「それより明日から高校最後の夏休みなんだし、頭切り替えよ! 帰りコンビニ寄ってこー。ほら、海鈴。お姉ちゃんがアイス奢(おご)っちゃるぜ!」
ゆっこが海鈴の肩を抱き、とんとんと叩く。
「あ、俺オラオラくんのソーダ味食べたい」すかさず翠が便乗しようとすると、
「あんたは自分で買いなよ」
ゆっこはばっさりと切り捨てた。
「ひどっ。俺にも奢ってよ」
「ね、海鈴も、アイス食べて切り替えよ?」
いつもと変わらない二人の掛け合いに、海鈴も笑みを零しながら席を立ち、帰り支度を始めた。
梅雨明けして間もない空はカラリと晴れ渡っている。雲は高く、蝉が暑さを誇張するように鳴いていた。まさに夏の空だ。梅雨は面影も残さず去っていったのに、海鈴の心は湿ったまま、止まない雨が降り続く。
海鈴たちは自転車を押しながら、太陽の下を歩く。じりじりと音まで聞こえそうなほど茹だるアスファルトをローファーで踏みながら、海鈴は前を歩く二人をぼんやりと眺めた。
肩で切りそろえた髪を丁寧に内巻きにして、高校生ながらうっすらと化粧を施したゆっこ。
一方翠も、黒と言うには少し明るく長い髪をワックスで遊ばせて、ちゃっかり担任教師に恋なんてしている。
「そういえばお前、この前一組の矢田(やた)に告られたんだろ?」
「フッた。同い年とか無理だし。せめて大学生じゃないと」
げんなりする翠の隣で、海鈴はぼんやりとゆっこを見つめた。
ガキか。そういうものなのだろうか。海鈴は異性なんてものは翠しか知らない。クラスメイトの男子と特別親しくもしていない海鈴にとっては、同級生がガキかどうかの区別すらつかない。
二人の笑顔はきらきらと輝いている。海鈴だけを置き去りにして、二人だけどんどん大人になっていく。急に二人が遠くなってしまった気がして、海鈴は底知れない不安を抱いた。
「……ねぇ」
その不安をかき消すように、二人を呼ぶ。思いの外、大きな声が出た。
「どうした?」
「あ……えーと、そう! 夏休みさ、海行かない? バーベキューとか花火やろうよ。ほら、三人で集まれるのは今年が最後かもしれないんだし」
しかし、二人はあっさりと首を横に振った。
「わりー。俺、夏休みは夏期講習なんだわ。時間合わせらんないと思う」
「そっか……じゃあ、ゆっこは? ゆっこは大学だけど、推薦決まってるから勉強とかはしなくていいんでしょ?」
縋るようにゆっこを見ると、彼女は困ったように笑いながら言った。
「そうなんだけど……私、一人暮らしの費用貯めたくて、バイト始めることにしたの。夏休みはあんまり休みないんだよね」
「……そっか」
二人の返答は、高校三年生としてとても真っ当なものだったように思う。
自転車の籠に無造作に入れられた文庫本が跳ねる。自転車のハンドルを持つ手は、少し骨っぽかった。ふ少しだけ寂しさを感じる。
海鈴はもう子どもではないのだ。海鈴の身体は、なんのことわりもなく勝手に大人になっていく。背が伸び、声音は落ち着きをまとい、子どもが作れる体になる。
当たり前のことだと、仕方のないことなのだと頭では分かっていても、どうしようもなく寂しくなった。
人生とは不自由極まりないものだ。海鈴はハンドルを強く握りながら、ふとそう思った。
手に持っていたスカイブルーの棒アイスは、いつの間にか溶けて形を失くしていた。
蝉の声がけたたましい田んぼ道。稲がさわさわと風に鳴き、時折蛙が存在を主張する。空には大きな入道雲が、いつ嵐を連れてこようかとそわそわしていた。
何気ない日常。
このままなにもなく夏休みを過ごして、秋が来て冬が来て、卒業するのだろうか。そして、海鈴だけなにも持たないまま、大人になりきれないまま、みんなに取り残されてひとりぼっちになるのだろうか。
それならば、いっそのことゆっこや翠と同じ大学に行けばその不安は消えるだろうか。
結局その日、答えも夢もなにひとつ見つけられないまま、海鈴は味のしないアイスの残骸を咥えて家路に着いたのだった。
「ただいまー……」
「おかえり。遅かったね」
「うん。ゆっこと翠と話してたから」
バタバタと足音を立てながら、海鈴は二階の自室へ向かう。
「ごはんはー?」
階段の下から、母の声が響いた。
「いらなーい」
海鈴は叫ぶと、部屋の扉を閉めた。
窓の外には、大きな大きな紺色の帳。ビーズを散りばめたような星たちが、ちらちらと控えめに瞬いていた。ベッドに寝転がった海鈴の横顔を、淡い月明かりが照らす。胸の上には、遠い国の神話の本。
「夏の大三角……ベガ、アルタイル、デネブ……はくちょう座と……あれ? アンタレスって……蠍座ってどこにあるんだっけ」
昔は星が好きで、よく夜空を見上げていた。
星と星が結びつき、白鳥になったり蠍になったり、大きな化け物が現れたりヒーローが懲らしめてくれたり。あんなに楽しく勉強してたのは、いつのことだったか。すっかり忘れてしまった。
「真っ赤な心臓……」
自分の声なのに、驚くほど低くて可愛げがない音だった。その声は無情にも、海鈴にあの頃とは違うんだということを思い知らせてくるようで。海鈴は無性に泣きたくなった。
「私は……後悔知らずの蠍なのかな……」
私たちは、どうして子どものままじゃいられないのだろう。ただ毎日を生きるためにあくせく働き、疲れ切って家に帰る。それが一生続くのか。そんなことなら死んだ方がマシだと思ってしまう自分は、甘いのだろうか。
宮沢賢治の蠍のように後悔しないよう、さっさと命を渡してしまえと思ってしまう自分は、どこかがおかしいのだろうか。
神様はなんて無慈悲で残酷なのだろうか。勝手にこの世に落としたくせに、あとは全部自己責任だなんて。
いくら文句を垂れたところで、モノトーンな現実はちっとも変わり映えしない。
月の明かりさえ眩しく思える。残酷な光を遮断するように、海鈴は両手で顔を覆った。しかし、いくら目を閉じても瞼の裏に焼き付いた夜空の光が消えることはなかった。
その重い空気の正体は、他でもない海鈴が持ってきた白紙の進路希望調査表だった。紙っぺら一枚のそれは、菌床栽培でもできるのではと思えるほど陰気な空気を放っている。
海鈴の白紙の進路希望調査表を見るやいなや、ずっとしかめっ面をしていた三条女史が、とうとう口を開く。
『これはなんだ?』
低い声で、且つ男のような口調で三条女史は海鈴に訊ねた。
『えっと……ハハ』
とりあえず圧がすごい。
『お前、状況分かってるか? もう高三の夏休みなんだよ?』
海鈴の返答に、呆れた顔をする三条女史。
『それは分かってるんですけど……』
『受験はまだ先でも願書は締切があるし、そもそもオープンキャンパスに参加していない学生は受験させてくれない学校だってある』
そんなことを言われても、なりたいものもやりたいことも見つからないのだから、どうしようもない。
『大学のオープンキャンパスは調べてるか?』
『いえ……まだ学部も決まってないので』
『就職にしろ進学にしろ、時間がない。オープンキャンパスは行くだけでも発見があるものだよ。どこでもいいから行ってみなさい』
『はい……』
海鈴は、小さな体をさらに小さく丸め、頷いた。
『飛鳥、あのな。大学はなにも学部で将来が決まるわけじゃない。むしろ、なりたいものが分からない子が行くところなんだ。お前は読書が好きだろ? 文学部とかはどうだ?』
『文学部かぁ……』
あまりピンとこない。
『とにかく、この休み中にしっかり考えること』
海鈴は立ち上がり、三条女史に軽く頭を下げると、逃げるように扉を開けた。
『あ、そうそう。飛鳥には特別課題を出すから』
帰り際、三条女史はダメ押しの一手を繰り出した。
『来週から、毎週月曜日の朝十時に必ず美術室に来ること』と。
来週から海鈴の高校は夏休みに入る。海鈴は特進クラスでもトップの成績だ。それなのに進路が決まらないからといって補習の生徒に混じって学校に来いとは、とんだ災難だ。
『返事は?』
『……はい』
三条女史に睨まれ、海鈴の背中を冷汗が流れたのは言うまでもない。
回想が終わり、海鈴はさらに気を落とした。
「うわぁ、特別授業とか可哀想……」
ゆっこが哀れむように海鈴の頭を撫でてくれる。
「なにそれ、羨ましい」
「羨ましくない。最悪」
思い出しただけでも頭が痛くなってくる。
「それより明日から高校最後の夏休みなんだし、頭切り替えよ! 帰りコンビニ寄ってこー。ほら、海鈴。お姉ちゃんがアイス奢(おご)っちゃるぜ!」
ゆっこが海鈴の肩を抱き、とんとんと叩く。
「あ、俺オラオラくんのソーダ味食べたい」すかさず翠が便乗しようとすると、
「あんたは自分で買いなよ」
ゆっこはばっさりと切り捨てた。
「ひどっ。俺にも奢ってよ」
「ね、海鈴も、アイス食べて切り替えよ?」
いつもと変わらない二人の掛け合いに、海鈴も笑みを零しながら席を立ち、帰り支度を始めた。
梅雨明けして間もない空はカラリと晴れ渡っている。雲は高く、蝉が暑さを誇張するように鳴いていた。まさに夏の空だ。梅雨は面影も残さず去っていったのに、海鈴の心は湿ったまま、止まない雨が降り続く。
海鈴たちは自転車を押しながら、太陽の下を歩く。じりじりと音まで聞こえそうなほど茹だるアスファルトをローファーで踏みながら、海鈴は前を歩く二人をぼんやりと眺めた。
肩で切りそろえた髪を丁寧に内巻きにして、高校生ながらうっすらと化粧を施したゆっこ。
一方翠も、黒と言うには少し明るく長い髪をワックスで遊ばせて、ちゃっかり担任教師に恋なんてしている。
「そういえばお前、この前一組の矢田(やた)に告られたんだろ?」
「フッた。同い年とか無理だし。せめて大学生じゃないと」
げんなりする翠の隣で、海鈴はぼんやりとゆっこを見つめた。
ガキか。そういうものなのだろうか。海鈴は異性なんてものは翠しか知らない。クラスメイトの男子と特別親しくもしていない海鈴にとっては、同級生がガキかどうかの区別すらつかない。
二人の笑顔はきらきらと輝いている。海鈴だけを置き去りにして、二人だけどんどん大人になっていく。急に二人が遠くなってしまった気がして、海鈴は底知れない不安を抱いた。
「……ねぇ」
その不安をかき消すように、二人を呼ぶ。思いの外、大きな声が出た。
「どうした?」
「あ……えーと、そう! 夏休みさ、海行かない? バーベキューとか花火やろうよ。ほら、三人で集まれるのは今年が最後かもしれないんだし」
しかし、二人はあっさりと首を横に振った。
「わりー。俺、夏休みは夏期講習なんだわ。時間合わせらんないと思う」
「そっか……じゃあ、ゆっこは? ゆっこは大学だけど、推薦決まってるから勉強とかはしなくていいんでしょ?」
縋るようにゆっこを見ると、彼女は困ったように笑いながら言った。
「そうなんだけど……私、一人暮らしの費用貯めたくて、バイト始めることにしたの。夏休みはあんまり休みないんだよね」
「……そっか」
二人の返答は、高校三年生としてとても真っ当なものだったように思う。
自転車の籠に無造作に入れられた文庫本が跳ねる。自転車のハンドルを持つ手は、少し骨っぽかった。ふ少しだけ寂しさを感じる。
海鈴はもう子どもではないのだ。海鈴の身体は、なんのことわりもなく勝手に大人になっていく。背が伸び、声音は落ち着きをまとい、子どもが作れる体になる。
当たり前のことだと、仕方のないことなのだと頭では分かっていても、どうしようもなく寂しくなった。
人生とは不自由極まりないものだ。海鈴はハンドルを強く握りながら、ふとそう思った。
手に持っていたスカイブルーの棒アイスは、いつの間にか溶けて形を失くしていた。
蝉の声がけたたましい田んぼ道。稲がさわさわと風に鳴き、時折蛙が存在を主張する。空には大きな入道雲が、いつ嵐を連れてこようかとそわそわしていた。
何気ない日常。
このままなにもなく夏休みを過ごして、秋が来て冬が来て、卒業するのだろうか。そして、海鈴だけなにも持たないまま、大人になりきれないまま、みんなに取り残されてひとりぼっちになるのだろうか。
それならば、いっそのことゆっこや翠と同じ大学に行けばその不安は消えるだろうか。
結局その日、答えも夢もなにひとつ見つけられないまま、海鈴は味のしないアイスの残骸を咥えて家路に着いたのだった。
「ただいまー……」
「おかえり。遅かったね」
「うん。ゆっこと翠と話してたから」
バタバタと足音を立てながら、海鈴は二階の自室へ向かう。
「ごはんはー?」
階段の下から、母の声が響いた。
「いらなーい」
海鈴は叫ぶと、部屋の扉を閉めた。
窓の外には、大きな大きな紺色の帳。ビーズを散りばめたような星たちが、ちらちらと控えめに瞬いていた。ベッドに寝転がった海鈴の横顔を、淡い月明かりが照らす。胸の上には、遠い国の神話の本。
「夏の大三角……ベガ、アルタイル、デネブ……はくちょう座と……あれ? アンタレスって……蠍座ってどこにあるんだっけ」
昔は星が好きで、よく夜空を見上げていた。
星と星が結びつき、白鳥になったり蠍になったり、大きな化け物が現れたりヒーローが懲らしめてくれたり。あんなに楽しく勉強してたのは、いつのことだったか。すっかり忘れてしまった。
「真っ赤な心臓……」
自分の声なのに、驚くほど低くて可愛げがない音だった。その声は無情にも、海鈴にあの頃とは違うんだということを思い知らせてくるようで。海鈴は無性に泣きたくなった。
「私は……後悔知らずの蠍なのかな……」
私たちは、どうして子どものままじゃいられないのだろう。ただ毎日を生きるためにあくせく働き、疲れ切って家に帰る。それが一生続くのか。そんなことなら死んだ方がマシだと思ってしまう自分は、甘いのだろうか。
宮沢賢治の蠍のように後悔しないよう、さっさと命を渡してしまえと思ってしまう自分は、どこかがおかしいのだろうか。
神様はなんて無慈悲で残酷なのだろうか。勝手にこの世に落としたくせに、あとは全部自己責任だなんて。
いくら文句を垂れたところで、モノトーンな現実はちっとも変わり映えしない。
月の明かりさえ眩しく思える。残酷な光を遮断するように、海鈴は両手で顔を覆った。しかし、いくら目を閉じても瞼の裏に焼き付いた夜空の光が消えることはなかった。