ミレイと不思議な鏡の国
 空から落ちてきた雫が、海鈴の頬を濡らした。近くでカァという聞き慣れた鳴き声がして重い瞼を開くと、目の前に白い閃光が走った。
 あっという間に視界は白く烟り、全身が生あたたかい空気に包まれる。

 神社の境内。波紋が広がる手水舎。雨の匂い。容赦なく地面を打ち付ける雨と、ガラスが割れるような激しい雷の音。

 海鈴は瞳を瞬いた。空気も、匂いも、体感も、すべてが日常のそれだ。
「……変な夢」
 雨の音に混じって、柄杓の水がぴちゃんと跳ねた。

 家に帰ると、海鈴は母にこっぴどく叱られた。気持ちは分かる。だがしかし、目を覚ましたらビニール袋が忽然となくなっていたのだから仕方ない。ふと思った。あちらの世界に置いてきてしまったのだろうか。

「……いや、まさかね」

 あれは夢だ。きっと、現実が嫌過ぎて見た夢。まったくバカバカしいと、海鈴は思った。いつまでも大人になれない自分自身に苦笑しながら、海鈴は部屋に戻った。

 激しい雨が部屋の窓を叩き、透明なガラスにいくつもの滝を作っていく。ときおり光る閃光が、煩わしい音とともに海鈴の横顔を照らした。しばらくして雷は鎮まり、雨も止んだ。

 チクタクチクタク。時計の音が響く。それは、あの世界で聞いたものによく似ていた。

 目の前の数式は、一体、将来のなにに役に立つのだろう。それよりも、まずは進路を決めることが先じゃないのか。いや、進路が決まっても学力が伴わなければ結局道は拓けないのか。ぐるぐると答えの出ない問題が頭を巡る。

「勉強って、なんでこんなにつまんないんだろ……」

 きっと、目的があれば勉強も楽しいのだろうが。
 シャーペンを置き、パタンとノートを閉じる。椅子の背もたれに体を預け、ぼんやりと天井を見上げた。

「ナノ、会いたいなぁ……精霊の音楽隊の演奏も素敵だったし……あの感覚……」

 あの弓の感覚が、恋しい。ぽつりと呟く。耳の奥で、記憶の中の音楽が流れ始める。
 なんでもあって、なんにもない世界。夢や希望や、わくわくすることばかりたくさんあって、なんのしがらみも理屈も制限もない自由な世界。

『君も弾いてみる?』

 ナノのヴァイオリンで奏でた音が忘れられない。また、あの重みを。また、あのメロディを。
 海鈴はクローゼットに目を向けた。中には幼い頃にやめてしまったヴァイオリンがあった。

 ケースには、少し汚れた不思議な生き物のぬいぐるみキーホルダーがついている。白くてぬぺっとしていて、洒落たハットと蝶ネクタイをつけて、手にはヴァイオリンを持っている不思議な生き物だ。どことなく、雰囲気がナノに似ていた。

 楽器と同じ形をしたケースを開けると、ヴァイオリン独特の懐かしい匂いと、少しの黴の匂いが海鈴の鼻をついた。ちょこんと収まっている子ども用の小さなヴァイオリンを手に取ると、それは思っていた以上に軽かった。

「弾けるかな……」
 鼓動が弾む。

 弓毛に松脂を塗ってチューニングをし、鏡の前で構えた。指に響く振動。耳元で聴こえるびぃんという懐かしい音。子供の頃の思い出が、ぶわっと全身を駆け巡った。

 子供用のヴァイオリンは、今の海鈴では少し小さく、弾きにくい。けれど、そんなことはどうだってよかった。海鈴は、ナノのようにただただ音楽を奏でるという行為を楽しんだ。

「海鈴ー! 消音器使いなさーい!」

 一階から母の文句が聞こえて、ハッとした。腹の底から笑いが込み上げる。あんなに嫌いになったと思っていたヴァイオリンが、こんなに楽しいと思えるなんて。

「あーもう。どうしてやめちゃったんだろう……」
 小さな後悔は、海鈴の胸をじんわりと熱くした。
 ベッドに寝転がり、目を瞑る。今眠れば、またあの夢を見られるだろうかと考える。目を閉じたまま上を向けば、頬にかかっていた髪がさらりと垂れた。

 そのときだった。
『どうだった? あっちの世界』

 静かな部屋の中に、突然声が響いた。海鈴は跳ねるように飛び上がる。
 声の方を見ると、クローゼットの横の姿見が目に入った。立ち上がり向かい合うと、鏡の中の自分がにっこりと笑った。

『楽しかったでしょ?』
「……嘘! 夢じゃなかった……!」
『私も楽しかったわ、あなたの世界。空が高くて、地に足が着いていて、空気が美味しいの。なにもかもペラペラしたあっちとは、全然違うのね』
「なにそれ。絶対あっちの方が楽しいのに」

 鏡の中の自分は、よく分からないことを言う。

「だって、こっちにはなんにもないもの」
『隣の芝生は青いってことね』
「あなたは何者? どうして私の姿なの? あの世界はなに?」矢継ぎ早に質問すると、目の前の自分が苦笑した。

 海鈴は鏡の中の自分を見つめた。海鈴はなぜだか、この人物の正体を知っているような気がした。
『私はミレイ。あの世界の創造主よ』

 自分と同じ名前のミレイの言葉に、海鈴は眉を寄せ首を傾げる。
『ねぇ、また入れ替わらない? 私、同じ姿の友達初めてなの』
「同じ姿……?」
『小さい頃からずっと一緒にいる子たちよ。ゆっこと翠くんだっけ。彼、かっこいいね。私、タイプ』

 ミレイはにやりと笑って言った。
 翠はたしかにそこそこかっこいいかもしれないが、恋人にはダメだ。あれは三条女史しか見えていないから。

「ちょ、変なことしてないよね!? 告白とか絶対やめてよ!? 翠は幼馴染だから! それに好きな人いるし」
『分かってるって。それより海鈴は好きな人いないの? 私もそろそろ恋をしたいのだけど』
「……そんなのいないよ」

 海鈴はまだ、異性を好きになったことはない。もちろん、興味がないわけではない。けれど、自分が誰かと手を繋いで歩いたり、デートしたりする想像なんてまったくできなかったし、したいとも思わなかった。

『お子ちゃまねぇ。仕方ない……しばらく我慢しましょ』
 思わずムッとした顔を向けると、ミレイはころりと話を変える。

『それより、また入れ替わりましょーよ!』
ミレイの申し出に、海鈴は困った顔をした。行きたいけれど、この時期にそんなことをしていていいのかという後ろめたさがある。

『あなたは少し深く考え過ぎなのよ。もっと気楽でいいじゃない。この世界は楽しんだもん勝ちよ?』

 ミレイが強い眼差しを向けてくる。

『あなたの思うままヴァイオリンを奏でればあなただけの音楽が生まれるし、願えばドラゴンだって生み出せる。あの場所は、あなたの好きなもので溢れた世界なのよ。あなたはなにが好き? なにに憧れる?』

 ミレイがにこっと笑いかけてくる。ドキリとした。

「……私、それより進路を決めなきゃいけないし、勉強もあるの」

 危うく惑わされそうになり、海鈴はぶんぶんと首を横に振った。

『そういえばあなた、ステラにまだ会ってないでしょ? あの子、すごい魔女なのよ。会ってみたくない?』
「えっ、ステラって、魔女なの?」

 そういえば、ステラに会いに行く途中でこちらの世界に戻ってきてしまったのだった。

 魔女のステラ。一体どんな子なのだろう。
 海鈴は想像する。ドキドキした。会ってみたい。ついでに戻ってきたときの情景を思い出し、海鈴はハッとした。

「そういえば、ナノと歩いてたら、ずっと鳴ってた時計の音が大きくなったの。あれはなんなの?」
『あぁ……あっちの世界は不安定だからね。時計の音と鏡が光ったら、タイムオーバー。こっちの世界に戻ってしまうわ』
「それって、自分の意思では戻れないってこと?」
『そんなことないわ。思い出して、私とあなたが入れ替わったときのこと』
「入れ替わったときのこと……?」
 脳裏に、神社での記憶が過ぎる。葉が擦れる音。高い空。柄杓の中に映る自分。

『鏡合わせで手を繋ぐの。あっちの世界で帰りたくなったら、反射するものに自分の姿を映せば私と繋がるわ』
「じゃあ、戻りたくなったら鏡を探せばいいの?」

『そういうこと。入れ替わる時間は、そうね。夜の間だけってことでどう? それなら日常生活にも支障ないでしょ?』
「……まぁ、そこまで言うなら」
 海鈴は渋々頷いた。
『それじゃあ、交渉成立ね!』

 ミレイはぱんと手を叩き、歯を見せて笑った。なるほど、自分は笑うとこんな顔をしているのか。海鈴は鏡の中を、ついまじまじと見てしまった。
 こうして、海鈴とミレイの入れ替わり生活が幕を開けたのだった。
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