ミレイと不思議な鏡の国
翌日の夜、姿見にその身を映した海鈴は、再びミレイと手を繋いだ。
強い風が吹く。音符が流れ、弾けて空の淡い空気に溶けていく。目を開くと、海鈴はあの異空間にいた。水の張った地面に寝そべっているみたいに、背中がひんやりとした。
しかし、不思議と服を着たまま水に濡れたとき特有の嫌な感覚はなかった。
ぼんやりとしたまま何度か瞬きをしていると、すぐ目の前にぬぺっとした白い海洋生物の顔が見えた。ナノだ。
「あっ! ミレイ起きた! もう、君ってば、いきなり寝ちゃうからびっくりしたよ」
どうやら、海鈴はその場で眠っていたらしい。ナノのつるっとした頭を撫でつつ、起き上がる。 傍らには、昨日買ったはずのビニール袋。やはりこちらの世界に置いてきていたようだ。
再び目を覚ました海鈴は、ナノと共にステラの家に向かうことになった。
「ステラってば、今もきっとお家で寝てるんだろうなぁ。起こすの大変なんだよなぁ」
ほわんとした声で言いながら、ナノは竹の周りを漂う光の玉を眺めていた。光の玉はちらちらと恥ずかしそうにこちらを覗いている。
コソコソと小さな話し声。なにを言っているのかは分からない。けれどきっと、海鈴やナノのことを話しているのだろう。あの光はもしかしたら、恥ずかしがり屋な精霊なのかもしれない。
「ねぇ、ステラってどんな子なの? 魔女だって聞いたけど」
「ステラはね、絵がとっても上手な魔女の子なんだよ」
「絵?」
海鈴は瞳を瞬いた。魔女なのに、絵が得意というのは意外だった。
「そうだよ。ステラが描く絵はこの世界で一番なんだ。なんたって、魔法の筆で描く絵だからね!」
「魔法の筆?」
海鈴の瞳がきらりと輝く。
「ま、会えば分かるよ!」
ほどなくして竹林を抜けると、今度は桃色の木のトンネルが現れた。それは花びらだけでなく、木自体がペイントされたように鮮やかな桃色だった。赤と白と水を混ぜた水彩の桃色が、視界の限り続く。
果てしなく続く道。この道は、一体どこまで続くのだろう。水面の反射で、まるで自分自身が桃色の水の中に落ちた透明な雫のように、異質なものに思えた。
桃色の世界を進んでいると、
「あ、見えてきたよ」
ナノの声にハッとして顔を上げると、ずっと続いていたと思っていた桃色のトンネルはいつの間にか途切れ、海鈴は青々とした森の中にいた。桃色だった視界から一転、緑が広がる。風すら青く感じるほど、清々しい空気。葉に落ちた水滴がぽつりと垂れる。
海鈴の目の前には、蔓や蔦に覆われた小さな小屋がひっそりと建っていた。どうやら目的地に着いたようだった。
しっとりとした木が生い茂る空間。木漏れ日の中にひっそりとあるのは、木組みの小さな小屋だった。
時代を間違ってしまったかと錯覚するような小さな小人や精霊が住んでいそうな一戸建て。三角屋根と木造の少し古びた引き戸には、アニメで見たことがあるような大きなベルがくっついている。
二階の窓を見上げると、ゆらりと影が揺れた。しかしその正体は分からないまま、ふっと消えてしまった。海鈴はナノに続いて自身の腰ほどの高さしかない引き戸の扉をくぐった。
屈みながら引き戸をくぐると、広々とした吹き抜けの空間に出た。可愛らしく、しっとりとした調度品たちが、エフェクトがかかったような解像度で飛び込んでくる。カラフルな原石が散りばめられたオルゴールに大きな巻時計、猫足のテーブルや椅子、細部まで丁寧に彫り込まれた天使のオブジェ。そこは、まるで宝物の山。
「わぁ……すてき」
見た瞬間に、海鈴の心が明るく弾む。ナノは慣れた様子で中に進む。
「ステラ。ボクだよ」
しかし、見た限り生き物の姿はない。代わりに目の前には、ピアノの鍵盤のような板が螺旋状に浮遊していた。
「ステラー。起きてー!」
ナノが叫ぶと、ふわふわと浮かんでいた板が白黒に発光した。それらはぱらぱらと重なりだし、ひとつの大きな壺に形を変える。アンティーク調で重厚感のあるその壺は、海鈴の頭上できらきらと星屑を散らしながら浮かんでいた。
「ミレイ、あの壺をノックして」
ナノに言われるまま、海鈴はぷかぷかと空中を漂う壺を三回ノックした。なんの物音もしない。
「起きないなぁ」
ナノはヴァイオリンの弓で、さらに何度か壺を叩く。
コツンコツンと木が骨董品を叩く音が響き、沈黙が落ちた。次の瞬間、突然ぼわんっと大きなキノコ雲のような紫色の煙が壺から立ち上った。
「わっ! なに?」
「ステラってば、寝坊助でね。いつもなかなか起きないんだ」
ナノは壺に飛びついて地面に降りてくると、暗闇の中で大きく叫んだ。
「ステラー! ボクだよ! 起ーきーてーよー!」
ナノの隣から中を覗くと、壺の中には小さな小さな女の子がいた。身長よりも長い淡い桃色の髪と、フリルとレースがふんだんにあしらわれた漆黒のドレス。少女は、まるで天使のように可愛らしく、壺の中ですやすやと寝息を立てていた。
「可愛い……」
思わず声が漏れる。
小さな両手に似つかわしくない大きな漆黒のとんがり帽子を抱えながら、少女は幸せそうに瞼を閉じている。
「ステラってば、いつまで寝てるんだよー」ナノの声に、少女の桃色の睫毛が微かに震えた。
「んん……ナノ……? さっき帰ったのに……なにか忘れもの?」
甘い甘い声だった。まるで蜂蜜をとろかしたような声で、少女はのんびりとした言葉を返す。
「さっきって……まさか、この前会ったときからずっと寝てたの!?」
ナノが、いつかなにかで見たムンクの「叫び」という絵画の人物と同じ顔をする。その反応に、海鈴も一体どれだけ寝てたのだろうと気になった。聞かなかったけれど。
「あれ……あなたは……誰?」
海鈴に気付いた少女が言った。
「この子はミレイだよ」
少女の目はほとんど閉じたままで、吐息混じりの声でミレイへ顔を向けた。彼女からは、寝息のような呼吸が聞こえてくる。けれど、ナノの声は彼女にしっかり伝わっているようだった。
「ふわぁ……私はステラ……眠ることが大好きな魔女の子だよ……よろしく……?」
「うん。よろしくね、ステラ」
涙で潤んだステラの瞳が細く開き、海鈴を見る。その瞳は深い深い赤色をしていた。まるで、赤色の毛糸を丁寧に編み込んだような、柔らかだけど芯のある瞳だ。
ステラは大きく欠伸をすると、気だるげに両手を伸ばした。漆黒の衣装から伸びた白く細い腕が海鈴の前にさらけ出される。
「よっこいしょ……」
ステラは壺から出ると、手をかざした。手のひらが光り出したかと思えば、その体よりも大きな筆が空中に現れる。
筆先は丸くふわふわとしていて、虹色に煌めいている。筆を見た海鈴は、無性に綿あめが食べたくなった。筆先が綿菓子のように柔らかそうで儚げだったのだ。
ステラは筆の柄に、魔女らしくちょこんと乗っかった。
「私はね、いのちの絵描きなの……」
「いのちの絵描き?」
「私はね……絵を描くのが好きな気持ちから生まれたの……それで……自分の魔力で作ったこの筆で、いのちを描くの……」
そういえば、海鈴も子供の頃はよく絵を描いた。幼い頃はただの画用紙に色を付けるのが大好きだった。線や点が無限になにかを象っていく。色とりどりのクレヨンや絵の具が魔法の道具のように思えた。
いつから、紙に落とす色が黒だけになってしまったのだろう。いつから、四角いその枠に閉じ込められて、思いのまま手を動かせなくなったのだろう。ステラの濡れた赤い瞳が、ガラス玉のように煌めく。筆には、カラフルに輝く煌めき。目眩がするほど眩しかった。
強い風が吹く。音符が流れ、弾けて空の淡い空気に溶けていく。目を開くと、海鈴はあの異空間にいた。水の張った地面に寝そべっているみたいに、背中がひんやりとした。
しかし、不思議と服を着たまま水に濡れたとき特有の嫌な感覚はなかった。
ぼんやりとしたまま何度か瞬きをしていると、すぐ目の前にぬぺっとした白い海洋生物の顔が見えた。ナノだ。
「あっ! ミレイ起きた! もう、君ってば、いきなり寝ちゃうからびっくりしたよ」
どうやら、海鈴はその場で眠っていたらしい。ナノのつるっとした頭を撫でつつ、起き上がる。 傍らには、昨日買ったはずのビニール袋。やはりこちらの世界に置いてきていたようだ。
再び目を覚ました海鈴は、ナノと共にステラの家に向かうことになった。
「ステラってば、今もきっとお家で寝てるんだろうなぁ。起こすの大変なんだよなぁ」
ほわんとした声で言いながら、ナノは竹の周りを漂う光の玉を眺めていた。光の玉はちらちらと恥ずかしそうにこちらを覗いている。
コソコソと小さな話し声。なにを言っているのかは分からない。けれどきっと、海鈴やナノのことを話しているのだろう。あの光はもしかしたら、恥ずかしがり屋な精霊なのかもしれない。
「ねぇ、ステラってどんな子なの? 魔女だって聞いたけど」
「ステラはね、絵がとっても上手な魔女の子なんだよ」
「絵?」
海鈴は瞳を瞬いた。魔女なのに、絵が得意というのは意外だった。
「そうだよ。ステラが描く絵はこの世界で一番なんだ。なんたって、魔法の筆で描く絵だからね!」
「魔法の筆?」
海鈴の瞳がきらりと輝く。
「ま、会えば分かるよ!」
ほどなくして竹林を抜けると、今度は桃色の木のトンネルが現れた。それは花びらだけでなく、木自体がペイントされたように鮮やかな桃色だった。赤と白と水を混ぜた水彩の桃色が、視界の限り続く。
果てしなく続く道。この道は、一体どこまで続くのだろう。水面の反射で、まるで自分自身が桃色の水の中に落ちた透明な雫のように、異質なものに思えた。
桃色の世界を進んでいると、
「あ、見えてきたよ」
ナノの声にハッとして顔を上げると、ずっと続いていたと思っていた桃色のトンネルはいつの間にか途切れ、海鈴は青々とした森の中にいた。桃色だった視界から一転、緑が広がる。風すら青く感じるほど、清々しい空気。葉に落ちた水滴がぽつりと垂れる。
海鈴の目の前には、蔓や蔦に覆われた小さな小屋がひっそりと建っていた。どうやら目的地に着いたようだった。
しっとりとした木が生い茂る空間。木漏れ日の中にひっそりとあるのは、木組みの小さな小屋だった。
時代を間違ってしまったかと錯覚するような小さな小人や精霊が住んでいそうな一戸建て。三角屋根と木造の少し古びた引き戸には、アニメで見たことがあるような大きなベルがくっついている。
二階の窓を見上げると、ゆらりと影が揺れた。しかしその正体は分からないまま、ふっと消えてしまった。海鈴はナノに続いて自身の腰ほどの高さしかない引き戸の扉をくぐった。
屈みながら引き戸をくぐると、広々とした吹き抜けの空間に出た。可愛らしく、しっとりとした調度品たちが、エフェクトがかかったような解像度で飛び込んでくる。カラフルな原石が散りばめられたオルゴールに大きな巻時計、猫足のテーブルや椅子、細部まで丁寧に彫り込まれた天使のオブジェ。そこは、まるで宝物の山。
「わぁ……すてき」
見た瞬間に、海鈴の心が明るく弾む。ナノは慣れた様子で中に進む。
「ステラ。ボクだよ」
しかし、見た限り生き物の姿はない。代わりに目の前には、ピアノの鍵盤のような板が螺旋状に浮遊していた。
「ステラー。起きてー!」
ナノが叫ぶと、ふわふわと浮かんでいた板が白黒に発光した。それらはぱらぱらと重なりだし、ひとつの大きな壺に形を変える。アンティーク調で重厚感のあるその壺は、海鈴の頭上できらきらと星屑を散らしながら浮かんでいた。
「ミレイ、あの壺をノックして」
ナノに言われるまま、海鈴はぷかぷかと空中を漂う壺を三回ノックした。なんの物音もしない。
「起きないなぁ」
ナノはヴァイオリンの弓で、さらに何度か壺を叩く。
コツンコツンと木が骨董品を叩く音が響き、沈黙が落ちた。次の瞬間、突然ぼわんっと大きなキノコ雲のような紫色の煙が壺から立ち上った。
「わっ! なに?」
「ステラってば、寝坊助でね。いつもなかなか起きないんだ」
ナノは壺に飛びついて地面に降りてくると、暗闇の中で大きく叫んだ。
「ステラー! ボクだよ! 起ーきーてーよー!」
ナノの隣から中を覗くと、壺の中には小さな小さな女の子がいた。身長よりも長い淡い桃色の髪と、フリルとレースがふんだんにあしらわれた漆黒のドレス。少女は、まるで天使のように可愛らしく、壺の中ですやすやと寝息を立てていた。
「可愛い……」
思わず声が漏れる。
小さな両手に似つかわしくない大きな漆黒のとんがり帽子を抱えながら、少女は幸せそうに瞼を閉じている。
「ステラってば、いつまで寝てるんだよー」ナノの声に、少女の桃色の睫毛が微かに震えた。
「んん……ナノ……? さっき帰ったのに……なにか忘れもの?」
甘い甘い声だった。まるで蜂蜜をとろかしたような声で、少女はのんびりとした言葉を返す。
「さっきって……まさか、この前会ったときからずっと寝てたの!?」
ナノが、いつかなにかで見たムンクの「叫び」という絵画の人物と同じ顔をする。その反応に、海鈴も一体どれだけ寝てたのだろうと気になった。聞かなかったけれど。
「あれ……あなたは……誰?」
海鈴に気付いた少女が言った。
「この子はミレイだよ」
少女の目はほとんど閉じたままで、吐息混じりの声でミレイへ顔を向けた。彼女からは、寝息のような呼吸が聞こえてくる。けれど、ナノの声は彼女にしっかり伝わっているようだった。
「ふわぁ……私はステラ……眠ることが大好きな魔女の子だよ……よろしく……?」
「うん。よろしくね、ステラ」
涙で潤んだステラの瞳が細く開き、海鈴を見る。その瞳は深い深い赤色をしていた。まるで、赤色の毛糸を丁寧に編み込んだような、柔らかだけど芯のある瞳だ。
ステラは大きく欠伸をすると、気だるげに両手を伸ばした。漆黒の衣装から伸びた白く細い腕が海鈴の前にさらけ出される。
「よっこいしょ……」
ステラは壺から出ると、手をかざした。手のひらが光り出したかと思えば、その体よりも大きな筆が空中に現れる。
筆先は丸くふわふわとしていて、虹色に煌めいている。筆を見た海鈴は、無性に綿あめが食べたくなった。筆先が綿菓子のように柔らかそうで儚げだったのだ。
ステラは筆の柄に、魔女らしくちょこんと乗っかった。
「私はね、いのちの絵描きなの……」
「いのちの絵描き?」
「私はね……絵を描くのが好きな気持ちから生まれたの……それで……自分の魔力で作ったこの筆で、いのちを描くの……」
そういえば、海鈴も子供の頃はよく絵を描いた。幼い頃はただの画用紙に色を付けるのが大好きだった。線や点が無限になにかを象っていく。色とりどりのクレヨンや絵の具が魔法の道具のように思えた。
いつから、紙に落とす色が黒だけになってしまったのだろう。いつから、四角いその枠に閉じ込められて、思いのまま手を動かせなくなったのだろう。ステラの濡れた赤い瞳が、ガラス玉のように煌めく。筆には、カラフルに輝く煌めき。目眩がするほど眩しかった。