一夜の甘い夢のはず
「あら、戻ってきたの」

 私が部屋に戻った時、麗華さんの声が真っ先に飛んできた。ただ事実を述べただけなのに、含まれた毒が身に染みるようだった。

「麗華」

 けど、さっきまで私が座っていたソファーの隣に腰かけた桜雅さんの静かな声が、水滴が波紋を広げるように静かに響く。
 決して荒げたわけでもないのに、麗華さんを咎め私を守ろうとしてくれているのが伝わってくる。あのまま帰らずに戻ってきて良かった。私は麗華さんじゃなくて、桜雅さんのためにここにいるんだから。

「とにかく、お兄様。私はきちんと申し上げましたからね。あとは、ご自身で責任をお取りになってください」

 私が席を外している間に、二人はなにを話していたんだろう。
 ソファーに座らず立ったままだった麗華さんは、桜雅さんにそう告げるとそのまま出口に向かってくる。扉の前で立ち尽くしていたままの私とかち合い、眼差しが鋭くなる。

「努々思い上がることのないように」

 睨むように告げられ、緊張が走る。

「麗華」

 水を切る様な声に、麗華さんがひるむのがわかった。ただ名前を呼んだだけ。それだけのことなのに、この緊迫。こんな声を出せる人に、もし親愛を込めて名前を呼ばれたらどんなに幸福だろうか。
 場に相応しくない妄想が脳裏を過る。
 毒を浴びせられても、ただの野良猫に過ぎない私だとしても、桜雅さんは望んで私をここに連れてきてくれた。

「大丈夫です。わかっていますから」

 虚勢だとしても、私は麗華さんに微笑んだ。
 私が笑うとは思ってもみなかったのか、麗華さんは目を丸くする。

「一ノ瀬さん! そんなことをおっしゃらないでください。思い上がっているのは私の方です」

 なぜか桜雅さんまでうろたえ始めて、場の空気が乱れる。

「もう、勝手になさいませ!」

 麗華さんはそう言い残すと、私の横をすり抜けて、ヒールの音を鳴らしながら行ってしまった。
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