一夜の甘い夢のはず
「は、はい……」

 スーツ姿に白い手袋。丸い銀縁眼鏡をかけた小柄な男性。
 思わず肯定の返事をしてしまったけど、見覚えのない人だった。送迎を祖父母がしている子どももいるけど、園児の関係者ならすぐにわかる。仕事関係以外で、この年代の人と付き合いはないし、フルネームで声を掛けられるいわれがわからず警戒する。

「お初お目にかかります。私、桜雅晴政様の幼少のみぎりから運転手をさせていただいております、室生(むろお)芳宗(よしむね)と申します」

 深々と頭を下げられると、白髪交じりの頭髪がよく見える。
 室生と名乗った初老の男性から告げられる、桜雅晴政さんの名前。その名前を聞いただけで、秋風に冷えた体が一気に熱を持つのがわかった。
 運転手という言葉に、室生さんの白手袋に納得がいく。桜雅さん、車移動が主って言ってたけど自分で運転じゃなくて運転手つきだったんだ。会社役員とかなのかな――って、あれ。幼少のころからって今言ってたよね?

「お迎えが遅くなり申し訳ありません。晴政様は今、身動きが取れない状態でして……代わりに案内を仰せつかりました」

 感じた引っかかりを深く考える暇もなく、室生さんが言葉を続ける。

「お礼の品を購入しに、雅屋デパートにご案内予定だったとのこと。もしよろしければ、お連れして商品を見ていただきながら晴政様をお待ちいただければと思います」

 私の知らなかった予定が告げられ、少し嬉しくなる。すぐに解散じゃなくて、ショッピングデート……デートのつもりは私だけだったんだろうけど、その一緒に見て回る予定だったんだ。

「あちらにお車を回しておりますので、ご迷惑でなければ是非」

 とはいえ、今ここにいるのは桜雅さんの運転手だっていう室生さん。デパートまで送ってもらったら、あとは一人で見て回って、桜雅さんが来たら希望を伝えてお礼されてお仕舞なのかな。そう思うと少し寂しい。

「勿論、ご迷惑とあらばお帰りいただいても結構です。大幅な遅刻な上、晴政様は不在。こちらの無礼は晴政様も承知の上です」

 帰るか行くか。提示された選択肢に、正直惑う。室生さんが本当に桜雅さんの運転手だっていう保証もないし、ほいほい車に乗ったらどこへ連れていかれるかわかったものじゃない。
 一時間近く待たされて、室生さんが来る前に諦めて帰っていたかもしれない。ここで帰っても室生さんが言う通り待たせた桜雅さんが悪いんだし、そうすべきだっていう気もした。
 でも、もう一度桜雅さんに会いたい。
 その一心で、私は室生さんの運転する黒塗りの高級車に乗り込むのを選んだ。
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