運命
2
「そこの女《おなご》」
残業を二時間して会社の最寄りの駅へ歩いていると、しわがれた女の声がした。
私はまさか自分に声をかけているとは思えず、急いで駅に入ろうとする。
「お主じゃよ。ベージュのパンツスーツのお主」
私は自分の恰好を指摘されて、怪訝な顔で声の方を向いた。
そこにはいかにも胡散臭そうな老婆が占いの看板を立てて、座っていた。
「わ、私ですか?」
「そうじゃよ。お主じゃよ」
「何ですか? 早く家に帰りたいんですけど」
私はそう言って渋々老婆の前に立った。
「そうじゃろうとも。分かっておる。しかし、じゃ。まあ、そこに座りなされ」
電車が来る音がした。どうやらこの電車には乗れそうにない。
私は仕方なく老婆の勧めた丸椅子に座った。
「そなた、恋愛でうまくいっておるまい」
私は言い当てられてどきりとしたが、占い師は誰にでもそう言うものかもしれないと自分に言い聞かせる。
「そんなこと、ありませんが」
「嘘はつかずとも良いよ。どうもそなたの恋愛の結末はよろしくない」
「え?」
私の心にナイフが入った。
上手くいってはいないことは分かっている。けれど、ここまではっきり言われると無視できなかった。
「そなた、悪いことは言わん。その男《おのこ》とは別れた方がよい」
別れる? 何を言ってるの?
別れるより悪い結末なんてない。
意味が分からない。
「別れる気はありません」
「そうじゃろうな。そうじゃからこそ……」
老婆はため息をついた。
「確実とは言えぬ。じゃが、そなたの恋愛の結末、変える方法がなくもない」
老婆は思いついたように声色を変えて言った。
そして、薄紫色をした、石、だろうか? 手のひらに乗るぐらいの玉を取り出した。玉は神秘的な光を放っていた。
これを買わせるつもりなのだろう。
危うく騙されるところだった。
私はうんざりして、
「買いませんよ」
と先手を打つ。
「普通はそうじゃろうな。しかしな、この玉には不思議な力があるのじゃよ。本当に追い詰められたとき、願いを叶えてくれるのじゃ」
「願い?」
私は立とうとした足を引っ込めた。
「そうじゃ。本当に追い詰められた時のみじゃ。人間にそんなことはそうそう起こりはしない。じゃがな、そなたはこのままいくと願わずにはいられぬ」
そんなに酷い未来なのだろうか。
私は思わず手をぎゅっと握りしめた。いつの間にか手のひらがベタつくほど汗をかいていた。
「無料《ただ》でやろう、というとますます怪しむであろう? そうじゃな。今なら十万円でこの玉を譲ろう」
「そんなお金、今持っていません」
私は玉から目を離さずにそう答えた。いつの間にか薄紫の玉が気になって仕方がなくなっている。
立ち去ることもできるのに、足が動かない。この玉が欲しいと思っている。
「もう少し安くしていただけませんか?」
口が勝手に動いていた。
「では今そなたの財布にはいくらあるんじゃ?」
私はベージュ色の長財布を取り出した。一万円札が四枚。そして千円札が七枚入っていた。
「ふうむ。そなたの財布にそれだけしかないのなら、四万五千円で譲ってやろう。それが人助けと言うものじゃ。どうする?」
老婆は私を試すようにそう言った。
私は一瞬お金を出すのを躊躇った。
けれど。
「分かったわ。買います」
「それが良かろう。願いは叶う。じゃが、願う時は具体的に。それから、未来を願うことはできぬ。まあ、使うべき時に使ってみるのが一番早い。できれば使わずとも良い未来であるようにわしも祈ろう。次の電車が来そうじゃ。帰りなされ」
私は薄紫の玉を受け取った。ひんやりと冷たく思ったよりも重い。私はその玉をハンカチで包むとバッグに入れて立ち上がった。
高い買い物だ。
できれば使うような未来にならないのが一番いい。四万五千円を捨てることにはなるけれど。
でも、老婆の口調が気になる。
念のため。念のためよ。
私は駅に入る前に老婆の方を一度振り返った。
老婆の姿はもうそこになかった。
まるで始めからいなかったように。
私は不安になって電車に乗ってから一度バッグの中を覗いた。ハンカチを触ると確かに丸い固い感触があってほっとする。
夢ではない。
でも。私の未来。一体どうなるというのだろう。
残業を二時間して会社の最寄りの駅へ歩いていると、しわがれた女の声がした。
私はまさか自分に声をかけているとは思えず、急いで駅に入ろうとする。
「お主じゃよ。ベージュのパンツスーツのお主」
私は自分の恰好を指摘されて、怪訝な顔で声の方を向いた。
そこにはいかにも胡散臭そうな老婆が占いの看板を立てて、座っていた。
「わ、私ですか?」
「そうじゃよ。お主じゃよ」
「何ですか? 早く家に帰りたいんですけど」
私はそう言って渋々老婆の前に立った。
「そうじゃろうとも。分かっておる。しかし、じゃ。まあ、そこに座りなされ」
電車が来る音がした。どうやらこの電車には乗れそうにない。
私は仕方なく老婆の勧めた丸椅子に座った。
「そなた、恋愛でうまくいっておるまい」
私は言い当てられてどきりとしたが、占い師は誰にでもそう言うものかもしれないと自分に言い聞かせる。
「そんなこと、ありませんが」
「嘘はつかずとも良いよ。どうもそなたの恋愛の結末はよろしくない」
「え?」
私の心にナイフが入った。
上手くいってはいないことは分かっている。けれど、ここまではっきり言われると無視できなかった。
「そなた、悪いことは言わん。その男《おのこ》とは別れた方がよい」
別れる? 何を言ってるの?
別れるより悪い結末なんてない。
意味が分からない。
「別れる気はありません」
「そうじゃろうな。そうじゃからこそ……」
老婆はため息をついた。
「確実とは言えぬ。じゃが、そなたの恋愛の結末、変える方法がなくもない」
老婆は思いついたように声色を変えて言った。
そして、薄紫色をした、石、だろうか? 手のひらに乗るぐらいの玉を取り出した。玉は神秘的な光を放っていた。
これを買わせるつもりなのだろう。
危うく騙されるところだった。
私はうんざりして、
「買いませんよ」
と先手を打つ。
「普通はそうじゃろうな。しかしな、この玉には不思議な力があるのじゃよ。本当に追い詰められたとき、願いを叶えてくれるのじゃ」
「願い?」
私は立とうとした足を引っ込めた。
「そうじゃ。本当に追い詰められた時のみじゃ。人間にそんなことはそうそう起こりはしない。じゃがな、そなたはこのままいくと願わずにはいられぬ」
そんなに酷い未来なのだろうか。
私は思わず手をぎゅっと握りしめた。いつの間にか手のひらがベタつくほど汗をかいていた。
「無料《ただ》でやろう、というとますます怪しむであろう? そうじゃな。今なら十万円でこの玉を譲ろう」
「そんなお金、今持っていません」
私は玉から目を離さずにそう答えた。いつの間にか薄紫の玉が気になって仕方がなくなっている。
立ち去ることもできるのに、足が動かない。この玉が欲しいと思っている。
「もう少し安くしていただけませんか?」
口が勝手に動いていた。
「では今そなたの財布にはいくらあるんじゃ?」
私はベージュ色の長財布を取り出した。一万円札が四枚。そして千円札が七枚入っていた。
「ふうむ。そなたの財布にそれだけしかないのなら、四万五千円で譲ってやろう。それが人助けと言うものじゃ。どうする?」
老婆は私を試すようにそう言った。
私は一瞬お金を出すのを躊躇った。
けれど。
「分かったわ。買います」
「それが良かろう。願いは叶う。じゃが、願う時は具体的に。それから、未来を願うことはできぬ。まあ、使うべき時に使ってみるのが一番早い。できれば使わずとも良い未来であるようにわしも祈ろう。次の電車が来そうじゃ。帰りなされ」
私は薄紫の玉を受け取った。ひんやりと冷たく思ったよりも重い。私はその玉をハンカチで包むとバッグに入れて立ち上がった。
高い買い物だ。
できれば使うような未来にならないのが一番いい。四万五千円を捨てることにはなるけれど。
でも、老婆の口調が気になる。
念のため。念のためよ。
私は駅に入る前に老婆の方を一度振り返った。
老婆の姿はもうそこになかった。
まるで始めからいなかったように。
私は不安になって電車に乗ってから一度バッグの中を覗いた。ハンカチを触ると確かに丸い固い感触があってほっとする。
夢ではない。
でも。私の未来。一体どうなるというのだろう。