バー・アンバー 第一巻
石の向こうから…
しかしそれにしてもよくこんな一糸まとわぬ姿でここまで来れたものだなどと危ぶみもするがとにかく女を中に入れたかった。正直云って経緯はもうどうでもよかった。忽然と現れた女の、その垂涎の肢体と云い、ミキに紛うその醸す雰囲気と云い、否も応もなかった。俺はごくりと唾を飲み込んでから「ま、まあ、と、とにかくどうぞ。入ってください。部屋に」と云って自らの身体を横に退かせ左手をふって中に入るようにと促す。しかし女は「いいえ(入りません)。でもそう云ってくれてありがとう。私のご主人様、私の王様。今夜はこれからあなたをお伽の国へとお連れします。さあ、どうぞ」と答えて俺に片手を差し伸べる。イントネーションのやわらかい綺麗な日本語だ。しかし正直云って女が何を云っているのかわからない。なぜ俺が彼女の主人で王様なのか。ひょっとしてこの女は狂人なのだろうか?対応を決めかねている俺に「ピュグマリオン様、わたしはあなたが造った彫像です。あなたに見て、感じてもらいたい世界があります。さあ、〝敷居〟を越えてください」と云って両手を前に突き出し俺を求めるような仕草をする。その仕草が(ここではお門違いかも知れないが)中国の小説家である廃名が「桃畑」内で述べた「地面にある石の向こうから聞こえて来る音があった」という、この一文だけで読者に次元の壁を越えさせるような、見事なフレーズを俺に想起させ、かつ俺に次元の壁を越えさせる効果を催させた。俺は夢見るように彼女に手を差し伸べながら敷居を跨ぎそして〝次元の壁〟を越えた。背中でドアが閉まる音がしたが、これが三次元、つまり現実社会との乖離を告げる音として聞こえる。俺は彼女の求めに応じるようにその両脇の下から背中に両手をまわしこれを強く抱きしめる。するとあの時と同じ、すなわちバー・アンバーの着替え室でミキを抱きしめた時と同じ感じが、胸に込み上げてくる熱いものを抑え切れない感じがした。彼女も…いや、これからは彼女をイブと呼ぼうか、パラサイト・イブのあのイブと同義になると思うが。