バー・アンバー 第一巻

逃げる!闇雲にただ逃げる!

とにかくその「まずタバコ」ができない苛立たしさにもうひとつ、俺の持つ弱点への挑戦が加わったようだ。新たに現れた十字路を今度は右に曲がった途端目の前にいきなり一人の男が立ち塞がった。25,6才くらいのチンピラ風の男だったがやけに下出にこう聞いてくる。「すいません、1円貸してくれませんか?」え?1円?…1円とは何だ。こいつ俺を馬鹿にしてやがるのかと腹が立ったが「いや、あいにく金銭を一切持ち合わせてないので貸せないよ」と答えてやる。すると今度は「1円もない分けないでしょ?」と云いざま寄って来ていきなり俺のズボンのポケットに手を突っ込んで来る。さすがに堪えかねて男の手を取ると上に折り曲げその肘の内側に俺の手を差し込んでアームロックをかけてやる。昨今流行の格闘技で見た技だ。しかし全然効く様子もなく男は「それはねえだろ?」と凄んだあとで足をからめて来俺を押し倒そうとする。まさにこの瞬間に俺の〝弱点〟が来た。それは恐怖心というやつである。育んで来た自分の価値観や生き方がいっさい通用せず(俺からすれば)非情で不合理なこと甚だしい事象が現れたとき俺は一切を放棄してしまう癖があった。つまりそういう〝弱点〟があった。それら俺にとって不都合で不合理な事象に対して甚だしい嫌悪感をもよおし、これと対峙するに堪えられないのだ。これがいまいる霊界(魔界)ではなく現実世界のことであったら文字通り嫌悪感による対象からの逃避となるのだが、ここ霊界においてはなぜかそれが〝恐怖心〟となって現れるのだった。技が効かないと知るや俺はこんなチンピラ風情に猛烈に恐怖心を抱き、見栄も外聞もなく絡みつく男の手足をどうにか掃うと洞窟の奥(だかどうだか知らないが)に向って闇雲に駆け出した。「待て、この野郎!」チンピラが追ってくる。あとでこの光景をカメラで見たら開いた口が塞がらないだろうという顔をして俺は逃げて行くのだが、今度はその先に行く手を塞ぐように、ランダムな紙の山が突然現れた。
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