バー・アンバー 第一巻
閣下、ご無事でーっ!
洞窟の左右上下いっぱいに広がった紙の山はしかしあたかもそこが無重力空間ででもあるかのようにどれもみな空中にフワフワと浮いている感じなのだ。かまわずに俺はそこに突っ込む。乱舞する紙の山を両手で掻き分けながらとにかく奥へ奥へと進んで行く。しかし背後からはさきほどのチンピラではなく、今度はなぜか完全武装した軍隊と思しき一団が追って来る気配がする。これが霊界の不思議なところで見えずともすぐにそうと分かるのだ。そう云えば地獄の恐怖の所以はそれが何であろうと当人が〝思えばすぐに現象化する〟ということなのだが、そうと思い出したのは後日のことでいまはただただ恐怖の虜そのものでしかなかった。このザマをもしミキやイブが見るならばさぞや俺を見損なうだろうがしかし前言したようにイブもミキも悉皆失念してしまい、思い出すことさえなかった。人が眠って夢を見るときその夢中では現実の自分をすっかり失って夢中のPTO、シチュエーションにすっかりはまってしまうということも俺は前に云った。で、だからいまがそれなのだ。地獄で恐怖を抱くことほど危険なことはないのだがこの見地からすると俺は100%アウトだった。「閣下!」紙の山中から突然一人の兵士が現れた。旧陸軍の三八銃と思しき銃を捧げ銃(つつ)して「閣下、ここはわたしが食い止めます。このままお逃げください」と上奏するように俺に云う。その顔は汗と泥にまみれており負け戦の只中にいるような姿である。ただその表情はこの俺を信じている、崇めているとでも云いたげな真摯で必死な面持ちだ。しかし何のことかわからず俺は彼をろくに見もしないで奥へとただ逃れて行く。すぐに彼は紙の山で見えなくなったが背後から「閣下、ご無事でーっ!」と最後の言葉を送ってよこした。あさましきまでの我が身だけという、自分さえ助かればというザマを露呈しつつ、紙の山を(おそらく今の兵士を簡単に倒してしまうだろう)背後から迫りくる軍団に隠れ蓑にするかのように、掻き分け掻き分け投げつけながら、俺は猪突〝猛逃げ〟して行く。するとその紙の山から今度は洞窟内のまた新たな十字路と思しきやや開けた場所へと飛び出した。紙の山は背後に乱舞していてそこ以降にはもはやないようだ。