バー・アンバー 第一巻

〝目覚め〟の朝

「コトトンコトトン、コトコトトン…さあ、今日も紡ぎましょう、織りましょう…コトトンコトトン、コトコトトン…」気がつけば俺はソファベッドの上でイブの紡ぎ歌を口ずさんでいた。閉めたカーテンの隙間からは朝の光がさし込んでいる。その光に新生の、蘇生の息吹を感じながら俺は大きく伸びをした。「ああ、夢か。イブも獣人も…あの鶴見の街も」新鮮な、心からの驚きを感じながら俺はしばらくその余韻に沈んだ。俺は見た夢を覚えているという特技(かな?)があって夢の掲示に思いを致すのが習わしになっていたのだが、この夢ばかりは強烈だった。夢は肉体に縛られた人間への掲示であり、鈍感な人間に何某かの方途を差し示すものである。「イブはジャスト喜びであり生きる縁(よすが)であり、獣人は無明な人生を送る俺への警告であり、紡ぎ歌は…道だ。そうだ。そうだ、そうだ!これから俺が生き行く方途だ!」バカのように独り言を云いながら俺は勢いよくベッドから跳ね起きた。開示された道に「ふふふ」と笑みさえ漏らしながら台所の洗面台へと向かう。台所のテーブルにはすっかり溶けたオンザロックがグラス半分ほどになって置いてある。「ちぇっ」と口の辺りを手でさすりながら洗面台に立つ。ミラーキャビネットに写った俺の顔には涙の跡があった。「ハハア、なるほどね」覚えた感動の如何ばかりかを悟りながらも、俺はその涙の跡を消すべく勢いよく顔を洗い出した…。
 新生への糧のごときインスタントコーヒーとトーストをしつらえると仕事机のパソコンの脇に置き、昨夜ハンガーラックに引っ掛けたままの背広から手帳とバー・アンバーの領収証を持ってくる。領収証の裏には愛しいミキの走り書きがそのままだ。あの会計の折りの興奮が蘇ったがそれを程よい刺激に変えて俺は机に向かい、「さてと」とばかり実名を邵廼瑩(ショウ・ダイエイ)という、ミキへの身体の提供者の詮索を始めた。改めて手帳の当該箇所に目を落とすと自分の字ながらとても読みにくい。あの状況での走り書きなので無理もないがしかしそれだったら手帳などに筆記せずに、携帯カメラでカシャリとばかり写せばよかっただけの話ではないかとは後から思い至ったことである。あの時は切迫していてそう気づきさえしなかったのだ。舌打ちし苦笑しながら「なになに?勤め先は✕✕新聞社で住所は千代田区内幸町…?」と独り言ちてから改めて関心を抱く。
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