傾国の落日~後宮のアザミは復讐の棘を孕む
皇上駕到(ホワンシャンジアタオ)!」      
 独特の抑揚で皇帝の来駕が告げられて、紫紅は立ち上がり、畏まってその訪れを待つ。
 紫紅が後宮に入ってからすでに数年。皇帝第一の寵姫の地位を揺るがぬものとしていた。
「珍しいな、そなたが朕に訪れを請うのは」
「お忙しい中を申し訳ございません」
「よい。……よほどのことがあったと見える。偉祥に関わることか?」
 大股で堂を横切ってきた皇帝が言えば、紫紅は優雅に腰を屈め、無言でそれを認めた。
 皇帝は紫紅の手を取り、長椅子に導く。
「何が起きた」
 紫紅は一瞬皇帝を見上げ、そして躊躇うように顔を俯ける。
「数日来、偉祥は風邪をひいておりましいて」
「それは聞いておる。具合はどうじゃ?」
「はい。熱も下がり、だいぶと元気になってまいりました。ですが――」  
 なかなか本題に入らない紫紅に、皇帝が眉を寄せる。
「いったいどうした」
「その……東宮(とうぐう)様より、お見舞いをいただいたのですが……それが……」
 東宮――皇太子は皇后所生の第二皇子だが、やや気が弱く、身体もあまり丈夫でないために、皇后は常に廃嫡を恐れていた。
「東宮が、偉祥に見舞いを?」
「それが……」
 言い淀んだ紫紅の肩を抱き、皇帝が耳元でさらに尋ねる。
「隠さず告げよ。嘘かどうか、朕が判断する」
 紫紅はしばし躊躇ったが、仕方ない、という風に控える侍女に目配せする。侍女が頭を下げていちど部屋を出て行き、そして(はこ)を持って戻ってきた。
「こちらは東宮より、今朝がたお遣わしになったものでございます」
 それは小さな壺に入った蜂蜜と、香盒に入った丸薬であった。
「昨日、侍医とともに、こちらをいただいたのですが……なんだが胸騒ぎがいたしまして。偉祥は眠っていると言って、薬だけ受け取り、侍医は追い返しました。どうにも不安ですので、そこの……金魚にやりましたところ……」
 紫紅が震える指先でさす方向には、水盤があって水草のと金魚が泳いでいた。……昨日までは。
「死んだのか?」
 皇帝の問いに、紫紅がコクリと頷く。
「人間には薬でも、金魚には毒なのかもしれません。大げさなことにするべきではとも思いましたが、でも……」
 皇帝は匣の中を覗き込み、そして花弁をかたどった香盒を取り出して蓋をあける。赤い薄紙に包まれた黒い丸薬が五つ。皇帝がクンと匂いを嗅ぐ。
「徐金剛!」
 皇帝が太監の徐公公を呼べば、即座に美貌の宦官が進み出る。
「御前に」
「この薬を調べろ。……念のためだ。朕が愛妃を安心させるためだ」
「畏まりました」
 深く頭を下げて徐公公が匣をもって下がると、皇帝は紫紅の細い肩を抱き寄せて言った。
「偉祥はなかなか見ごたえがある。朕は……あれに帝位を譲りたいと思うておる」
 皇帝は唇を紫紅の耳元に寄せ、囁くように言った。顎髭が紫紅の耳朶に触れる。
「陛下……儲弐(あとつぎ)のことは国の大事にございます。我が子は愛おしゅうございますが、ですが、そのせいで危険に巻き込まれるのは……」
「心配せずともよい。そなたと偉祥は朕が守る」
「陛下……」
 皇帝の胸に縋り、紫紅は龍袍に顔を埋めて密かに笑みを漏らした。
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