傾国の落日~後宮のアザミは復讐の棘を孕む
その後、何事もなく日々は過ぎた。
あれは単なる皇帝の気まぐれだったのか、あるいは、皇帝が息子の伯祥を試したのか。
そんな風に思い始めたころ、紫紅は自身の身体の変化に気づいた。
吐き気と食欲不振があり、月のものも遅れている。
――もしかしたら、赤ちゃん?
紫紅はそっと、自分の平らな腹を両手で覆う。
医者に言うべきか、それともまずは伯祥に告げるべきか。あるいは実家の母に――
初めての妊娠に戸惑いつつ、紫紅は夫の部屋に向かう。
「伯祥様……あの……」
窓に向かう紫檀の机の前で、伯祥は凛々しい眉を寄せ、難しい顔で書簡を読んでいた。
「あ、ああ……紫紅。……いや、特にやり取りのない相手から意味の分からない書簡が来て、どうしたものか……」
伯祥はそれを丸め、文箱の中にしまって紫紅に向き直る。
「どうかしたのか?」
「その……わたし……」
妊娠を告げようとしたとき、門の方から妙な騒ぎと、悲鳴が聞こえた。
「何事か?」
さして広くもない邸第の中で、物の壊れる音と争う声、悲鳴が響き渡る。不穏な様子に、伯祥がゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「……紫紅……私は嵌められたらしい」
「え?」
何を言われたかわらず紫紅が尋ねるが、伯祥はそれに答えず、紫紅を真剣な目で見つめ、言った。
「誓ってくれ、紫紅。生涯、私だけだと」
「え? ええ……伯祥様?」
「私も、生涯、そなただけだ。愛している、紫紅」
そう言って、強引に唇を奪われて――
次の瞬間、どたどたと乱暴な足音がいくつも聞こえたかと思ったら、バコンと荒々しく木扉がけ破られ、武装した兵士たちが室内に踏み込んできた。
「陛下のご下命だ。魏王伯祥! 謀反の疑いで逮捕する。おとなしく縛に着け!」
隊長らしき髭を蓄えた男が皇帝の詔勅を示し、紫紅は息を呑む。
「そんな! 何かの間違いです!」
思わず叫び、捕り手に食って掛かろうとする紫紅を、伯祥が抑える。
「そう、間違いだ。だが、陛下の命令には逆らえない」
「でもこんな……!」
互いに庇い合う二人に、隊長が冷酷に告げた。
「まず魏王の捕縛、それからその細君も連行する。謀叛人の家族であれば、宮中に奴隷として没収されるのが法だ」
「紫紅は……妻は関係ない!」
伯祥が背中に紫紅を庇うが、兵士に数人がかかりで引き離されてしまう。
「伯祥様!」
「乱暴な扱いはやめてくれ!」
「黙れ謀叛人が!」
隊長は伯祥と紫紅をそれぞれ拘束させながら、別の部下に命令する。
「そのあたりの書簡類も押収しろ。証拠があるはずだ」
その時、紫紅がハッとした。
「……証拠……」
さきほど伯祥が言っていた、特にやり取りのない相手からの奇妙な書簡――その直後の捕縛。
紫紅はそのカラクリに気づいて叫んだ。
「まさか……仕組んだのね! なんて卑怯な! 伯祥様は無実です!」
「黙れ! 生意気な女め!」
振り上げた隊長の手を、背後から伸びた手が掴んだ。
「おやめなさいまし。乱暴はなりませぬ」
男とも女ともつかぬ奇妙な甲高い声が響き、隊長の蛮行を咎める。
「お前は……」
「徐公公……」
現れたのは背の高い偉丈夫であったが、抜けるように色が白く、女にも見まごう美貌で、そしてツルリと髭がなかった。伯祥とは以前からの知り合いなのか、恭しい態度で腰を屈める。
「魏王殿下、失礼をお許しください」
「そなたが参ったということは、つまりは父上の……」
手首を掴まれた隊長も、その人物の正体に気づいて、慌てて縮こまる。
「徐公公でしたか。お人の悪い」
「薊夫人を主上のもとにお連れするよう、申し付けられてございます」
表情の読めない黒い目でみつめられて、紫紅は蛇にまとわりつかれているような気分になり、ゾッと身を震わせる。
(つまり、この人は……皇帝陛下に仕える太監?)
「紫紅は私の妻だ! それも父上が私に選んで娶せた!……それを! 取り上げるなんて!」
兵士たちに両側から抑えつけられながら、伯祥が叫ぶ。
会話を聞いてようやく、紫紅も事態の全貌を飲み込んだ。――皇帝はあの清明節の宴で息子の嫁である紫紅を見初め、後宮に差し出すように命じたが拒まれた。だから――
「そんな! 息子の嫁を取り上げるために、罪をでっち上げるなんて、あんまりです! 天子のなさることではありません!」
「夫人、口を慎まれよ。それ以上は不敬です」
身を捩って抗おうとする紫紅を、徐公公が咎める。
「でも! いやです! 後宮になど参りません! わたしは伯祥様の妻です! 伯祥様!」
紫紅は必死に振り返って夫に助けを求め、伯祥もまた兵士たちに押さえ付けられたまま叫ぶ。
「紫紅! 私にもお前だけだ! のちの世でも、ずっと!」
「わたしもです! わたしも伯祥様だけ! お願い、離して!」
互いに呼びかけ合うのを無理に引き剝がされる。暴れる二人を取り押さえようと、狭い室内に兵士たちが突進し、物の壊れる音が響く。非力な女と皇子は多勢に無勢、乱暴に引き立てられ、別々の馬車に押し込められてしまった。
「伯祥様! 伯祥様! いやよ、伯祥様ー!」
狂ったように夫の名を呼ぶ紫紅の声が、兵士たちの雑踏と鎧のぶつかる音にかき消される。
――それが、紫紅が伯祥の姿を見た、最後だった。
あれは単なる皇帝の気まぐれだったのか、あるいは、皇帝が息子の伯祥を試したのか。
そんな風に思い始めたころ、紫紅は自身の身体の変化に気づいた。
吐き気と食欲不振があり、月のものも遅れている。
――もしかしたら、赤ちゃん?
紫紅はそっと、自分の平らな腹を両手で覆う。
医者に言うべきか、それともまずは伯祥に告げるべきか。あるいは実家の母に――
初めての妊娠に戸惑いつつ、紫紅は夫の部屋に向かう。
「伯祥様……あの……」
窓に向かう紫檀の机の前で、伯祥は凛々しい眉を寄せ、難しい顔で書簡を読んでいた。
「あ、ああ……紫紅。……いや、特にやり取りのない相手から意味の分からない書簡が来て、どうしたものか……」
伯祥はそれを丸め、文箱の中にしまって紫紅に向き直る。
「どうかしたのか?」
「その……わたし……」
妊娠を告げようとしたとき、門の方から妙な騒ぎと、悲鳴が聞こえた。
「何事か?」
さして広くもない邸第の中で、物の壊れる音と争う声、悲鳴が響き渡る。不穏な様子に、伯祥がゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「……紫紅……私は嵌められたらしい」
「え?」
何を言われたかわらず紫紅が尋ねるが、伯祥はそれに答えず、紫紅を真剣な目で見つめ、言った。
「誓ってくれ、紫紅。生涯、私だけだと」
「え? ええ……伯祥様?」
「私も、生涯、そなただけだ。愛している、紫紅」
そう言って、強引に唇を奪われて――
次の瞬間、どたどたと乱暴な足音がいくつも聞こえたかと思ったら、バコンと荒々しく木扉がけ破られ、武装した兵士たちが室内に踏み込んできた。
「陛下のご下命だ。魏王伯祥! 謀反の疑いで逮捕する。おとなしく縛に着け!」
隊長らしき髭を蓄えた男が皇帝の詔勅を示し、紫紅は息を呑む。
「そんな! 何かの間違いです!」
思わず叫び、捕り手に食って掛かろうとする紫紅を、伯祥が抑える。
「そう、間違いだ。だが、陛下の命令には逆らえない」
「でもこんな……!」
互いに庇い合う二人に、隊長が冷酷に告げた。
「まず魏王の捕縛、それからその細君も連行する。謀叛人の家族であれば、宮中に奴隷として没収されるのが法だ」
「紫紅は……妻は関係ない!」
伯祥が背中に紫紅を庇うが、兵士に数人がかかりで引き離されてしまう。
「伯祥様!」
「乱暴な扱いはやめてくれ!」
「黙れ謀叛人が!」
隊長は伯祥と紫紅をそれぞれ拘束させながら、別の部下に命令する。
「そのあたりの書簡類も押収しろ。証拠があるはずだ」
その時、紫紅がハッとした。
「……証拠……」
さきほど伯祥が言っていた、特にやり取りのない相手からの奇妙な書簡――その直後の捕縛。
紫紅はそのカラクリに気づいて叫んだ。
「まさか……仕組んだのね! なんて卑怯な! 伯祥様は無実です!」
「黙れ! 生意気な女め!」
振り上げた隊長の手を、背後から伸びた手が掴んだ。
「おやめなさいまし。乱暴はなりませぬ」
男とも女ともつかぬ奇妙な甲高い声が響き、隊長の蛮行を咎める。
「お前は……」
「徐公公……」
現れたのは背の高い偉丈夫であったが、抜けるように色が白く、女にも見まごう美貌で、そしてツルリと髭がなかった。伯祥とは以前からの知り合いなのか、恭しい態度で腰を屈める。
「魏王殿下、失礼をお許しください」
「そなたが参ったということは、つまりは父上の……」
手首を掴まれた隊長も、その人物の正体に気づいて、慌てて縮こまる。
「徐公公でしたか。お人の悪い」
「薊夫人を主上のもとにお連れするよう、申し付けられてございます」
表情の読めない黒い目でみつめられて、紫紅は蛇にまとわりつかれているような気分になり、ゾッと身を震わせる。
(つまり、この人は……皇帝陛下に仕える太監?)
「紫紅は私の妻だ! それも父上が私に選んで娶せた!……それを! 取り上げるなんて!」
兵士たちに両側から抑えつけられながら、伯祥が叫ぶ。
会話を聞いてようやく、紫紅も事態の全貌を飲み込んだ。――皇帝はあの清明節の宴で息子の嫁である紫紅を見初め、後宮に差し出すように命じたが拒まれた。だから――
「そんな! 息子の嫁を取り上げるために、罪をでっち上げるなんて、あんまりです! 天子のなさることではありません!」
「夫人、口を慎まれよ。それ以上は不敬です」
身を捩って抗おうとする紫紅を、徐公公が咎める。
「でも! いやです! 後宮になど参りません! わたしは伯祥様の妻です! 伯祥様!」
紫紅は必死に振り返って夫に助けを求め、伯祥もまた兵士たちに押さえ付けられたまま叫ぶ。
「紫紅! 私にもお前だけだ! のちの世でも、ずっと!」
「わたしもです! わたしも伯祥様だけ! お願い、離して!」
互いに呼びかけ合うのを無理に引き剝がされる。暴れる二人を取り押さえようと、狭い室内に兵士たちが突進し、物の壊れる音が響く。非力な女と皇子は多勢に無勢、乱暴に引き立てられ、別々の馬車に押し込められてしまった。
「伯祥様! 伯祥様! いやよ、伯祥様ー!」
狂ったように夫の名を呼ぶ紫紅の声が、兵士たちの雑踏と鎧のぶつかる音にかき消される。
――それが、紫紅が伯祥の姿を見た、最後だった。