悪役令嬢として婚約破棄されたところ、執着心強めな第二王子が溺愛してきました。
悪役令嬢のお仕事
アイリスが王城の廊下を歩いていると、柱の陰からただよう香りが鼻についた。その香水には、心当たりがあった。
(ああ、いつもの令嬢たちか)
そう思うと、もうため息も出ない。
そして耳を澄まさずとも聞こえてくる、いつもの台詞。
「……いったい、いつまでクリストファー殿下の婚約者でいるつもりかしら?」
「研究研究、研究ばかりで、せっかくわたくしがお茶会へ招待しているのに、いらっしゃらないんですもの。これでは王妃なんてとても務まりませんわね」
「しかも魔物の研究をしているなんて! 野蛮だわ……恐ろしい……」
コソコソと自分の悪口を言う令嬢たちには、もう慣れた。
文句のひとつでも言ってやればいいのかもしれないけれど、彼女たちに使う時間も惜しい。だからアイリスは気にせず通り過ぎることにしている。
(お茶会に参加することだけが王妃の役目なら、魔物がいるこの世界はとうに滅んでいるでしょうね)
と、これくらいの悪態は心の中でつくけれど。
アイリスは生まれたときから、この世界のことを知っていた。
正確にいえば、この世界が舞台になっている乙女ゲームをプレイしていた――というのが正しいだろうか。
その記憶はもう二十年も前だというのに、意外にもしっかり覚えている。
乙女ゲーム『リリーディアの乙女』。
瘴気がはびこるオリオン王国は、魔物の数が増え、このままでは国が滅びてしまう……という危機に陥り誰もが恐怖を抱いていた。
そんなとき、神託があった。
魔物が発する瘴気を浄化する絶対的な力を持つ乙女――この物語の主人公がいると。
主人公は愛の力が強くなるほど浄化する力が強くなる。
攻略対象キャラクターと恋愛をし、魔物を浄化してオリオン王国を救うという壮大な乙女ゲームだ。
――そんな乙女ゲームの世界で、アイリスは悪役令嬢に転生した。
侯爵家の令嬢、アイリス・ファーリエ。二十歳。
プラチナブロンドの長い髪に、凛とした菖蒲色の瞳。身長は百六十七センチメートルと少し高めだが、可愛いより綺麗目な顔立ちとは相性がいい。
甘いミルクティーは好きだけれど、女同士の腹の探り合いが行われるお茶会はあまり好きではない。それなら、職場で働いている方がいいと考えてしまうワーカーホリック女子だ。
今はドレスではなく、職場の制服に身を包んでいる。
白の白衣をベースにしたもので、紺色の細いベルトをあしらったデザインだ。グレーのシャツは水色に白のストライプが入ったリボンタイをつけていて、上品な仕上がりになっている。
というのが――悪役令嬢になった彼女の姿と名前。
そう、アイリスは現代日本で暮らしていたが、何らかの理由でこの世界に転生したのだ。
けれど、悲観してはいない。
元々『リリーディアの乙女』は好きだったので、死んでしまったことは悲しいけれど……ゲームの世界に転生できたこと自体は嬉しかったからだ。
そしてあまり悲観していない理由のひとつに、悪役令嬢である自分の処遇というものがある。
ゲームでのアイリスは、将来的に婚約者の王子に婚約破棄を突きつけられる。そしてその後、国外追放という罰が下る。
そう、別に処刑されるような過酷な未来が待っているわけではないのだ。
このまま貴族と政略結婚をさせられ、愛のない結婚生活を送るくらいならば……アイリスはその処罰を受け入れようと思っている。
いや、ぜひ受け入れたいのだ!
前世のアイリスは日本で会社員をしていたので、別に貴族の身分を剥奪されて国外追放されたところで、何の問題もない。
大学時代からひとり暮らしをしていたので、大抵のことは自分ひとりでできる。
アルバイトもいろいろやったし、就職してからも真面目に働いた。……ただ、自分の真面目すぎた性格のせいで、どうにも恋愛面だけは上手くいかなかったけれど……。
……恐らくそれが、アイリスが乙女ゲームをやり始めた理由だろうか。
というような人生を経て、転生する前は神経も図太くなってきたアラサーだった。そのため、逆に追放が楽しみだったりする。
独り立ち万歳、だ。
ただ残念だったのは――乙女ゲームは所詮、都合のいいゲームだったということだろうか。
アイリスが気にせず廊下を歩いていると、ちょうど曲がり角に人影が見えた。
(うわ、まさかこんなところで会うなんて)
曲がり角からこちらにやってきた人物は、アイリスが会いたくない相手ナンバーワン――このゲームのメイン攻略対象、つまりアイリスの婚約者だった。
彼はアイリスを見るなり、口を開いた。
「アイリスじゃないか。まだ研究所にいるのか? いい加減、そんなところで働くのは止めてほしいものだが……」
「…………」
思わずアイリスの頬も引きつるというものだ。
「聞いているのか? 俺の婚約者として、恥ずかしくないように心がけてほしいと言っているんだよ」
(親しくないかもしれないけれど、親しき中にも礼儀ありという言葉を知らないのかしら?)
――と、アイリスは思う。
挨拶もなく話し始めたのは、この国の王太子クリストファー・オリオン。二十歳。
全女子が「王子様だ!」と言うだろう整った容姿は、サラサラの金色の髪と、金に近い水色の瞳からできあがっている。
すらりと伸びた手足に、鍛えられた逞しい身体。誰もが目を奪われてしまうだろう。
かくいう前世のアイリスも、実はそのうちのひとりなのだが……悪役令嬢となった今は、黒歴史だったと思うことにしている。
クリストファーはアイリスの態度なんてまったく気にせず、続けて話す。
「はああぁ。君がほかの令嬢たちから、何と言われているか知っているか? 人間の男よりも、魔物が好きな令嬢なんて呼ばれて――」
「アイリス、こんなところにいたんですか。今日は魔獣舎へ行く予定ですよ」
「――誰だ! 俺の言葉を遮ったのは!!」
これは話が長くなりそうだと思っていたら、何とも無礼にクリストファーの言葉を遮った強者がいた。
不敬な行為だけれど、アイリスは心の中でそっと拍手を送った。
やってきたのは、アイリスの同僚のラース。十七歳。
長い黒髪を後ろで一つに結んでいる。右側の前髪は片目が隠れるほどに長く、金の縁取りの眼鏡をかけている。そこから見える瞳は薄紫で、透明度の高い水晶のようだ。
前髪と眼鏡のせいで顔はあまり見えないのだけれど、王宮魔獣研究所の制服を見事に着こなしていることもあって、アイリスは密かにイケメンだと思っている。
ラースの制服は、ベースはアイリスと同じ作りだが、朱色の細いベルトをあしらったデザインだ。朱色のネクタイには白のクロスストライプが入っている。
そんなラースは身分というものにあまりこだわりがないようで、気にしないことが多い。いつか不敬罪で処罰されないといいのだけれど……とアイリスは心配している。
ラースは、クリストファーを見て首を傾げてみせた。
「しかし、このままではアイリスが仕事に遅れてしまいますよ。あなたのせいでアイリスの仕事の評価が悪くなるのはどうかと」
「…………は?」
よくもまあ、クリストファーにここまで言えたものだとアイリスは感心する。
クリストファーはといえば、きっとそんなことを言われたこともないのだろう。口をパクパクして言葉を失っている。
「探しちゃいましたよ。今日は徹底的に掃除をしようと思っていたので、アイリスがいなかったら大変でした」
「あら、それは確かに大変だわ。ごめんなさいね。探しに来てくれてありがとう、ラース」
ラースはアイリスの返事に頷くと、「行きましょう」と歩き出した。どうやらクリストファーのことは気にしないことにしたようだ。
(どうしたらこんなに強メンタルになれるのかしら……)
侯爵家の令嬢で、婚約者のアイリスも、さすがにここまでの態度はとれないというのに。
とはいえクリストファーの言葉は度がすぎることも多々あるので、ラースのことを見習った方がいいかもしれないとも思ってしまう。
「仕事ですので、失礼いたします」
アイリスは軽く礼を取り、ラースの後を追った。
アイリスやラースは『王宮魔獣研究所』に勤めている。
ここは魔物の中でも魔獣に分類されるものを研究している機関だ。
魔獣とは、魔物の中で動物型に区分されるもののことで、もっとも数が多い。ほかの区分には、核というものを持つ小さな竜巻や、ゲームでは定番のスライムのような魔物もいる。
魔物は、存在するだけで瘴気を発する。
瘴気は大地を蝕んでいくため土地が痩せ、空気が濁り、人の身体に不調をきたす。人々は日夜、瘴気が増え続けないよう対策に奔走している。
定期的に魔物の討伐はされているが、生息地や生態などの研究を進めていくことでよりスムーズに行うことができる。
この研究所の研究は、弱点を始めとした魔獣の生態はもちろんのこと、人間と共存できる可能性というのも含まれる。
そのため、研究所には魔獣舎があり魔獣が飼育されているのだ。
「それにしても……ラース、今の人が誰か知らなかった……何てこと、ないわよね?」
ラースは研究に没頭するところがある。魔獣だけではなく、趣味で魔導具の開発なんてこともしているとアイリスは以前聞いたことがあった。
そういったことに夢中になりすぎて、ほかのことは一切知らないのでは……とアイリスは考えてしまったのだ。
アイリスの問いかけに、ラースはきょとりと目を瞬かせて笑った。
「さすがに俺だって、この国の第一王子の顔くらいは知っていますよ」
「知っていてあの態度だったの……」
なんて怖いもの知らずなのだろうか。
しかしラースは、クリストファーに絡まれているアイリスを助けてくれたのだろう。
ラースでなければ、アイリスとクリストファーの間に入ってくるような人間はいないだろうから……。
「ラースがもし処罰されたら、と考えたら褒められる行為ではないんだけど……。私は助かったわ。ありがとう、ラース」
「いえいえ。アイリスのお役に立ててよかったです」
「でも、無茶だけはしないでね」
「はい」
ラースが嬉しそうに返事をしてくれたので、アイリスは仕方がないと肩をすくめた。
しばらく廊下を歩き、アイリスたちは中庭に出た。
ここから十五分ほど歩いたところに魔獣舎があるのだ。地味に遠いのは、王城の建物の近くに魔獣舎を作る許可が下りなかったからだ。
(個人的には、散歩にちょうどいい距離なのよね)
魔獣舎に続く道とはいえ、王城の庭なのできちんと手入れがされている。歩きやすいように歩道は舗装され、花壇には可愛らしい花が咲いているので見ていて楽しい。
その花壇の道を抜けると、今度は木々が多くなる。林とまではいかないけれど、騎士がちょっとした訓練をすることはできるそうだ。
そんな中、ふと工事をしている様子が目に入った。
「あら? あんなところで工事なんてしていたかしら?」
魔獣舎から歩いて五分ほどのところで人が集まり、建設しているようだ。
特にアイリスの耳には届いていないので、研究所関連ではないだろうけれど……さすがに魔獣舎に近すぎのように思う。
そんなアイリスの疑問に答えをくれたのは、ラースだ。
「新しい離宮が建つんです」
「え? あんなところに離宮が?」
離宮といえば、そこで生活するのは大抵身分がある王族やその愛妾などだが……王族が魔獣舎の近くで暮らすとは思えない。
「いったい誰が住むのかしら。……まあ、私たちには関係のないことね。行きましょう、ラース。これ以上遅くなると仕事に遅れてしまうし、ルイたちが待ってるわ」
「はい」
――一瞬だけ、アイリスの脳裏に嫌な考えが浮かんだ。
クリストファーと結婚後、自身を追いやるための離宮では……?と思ってしまったのだ。嫌っている嫁を隔離するにはちょうどいい、と。
(って、さすがにそれはないわね)
アイリスは首を振って考えなかったことにする。
大丈夫、仮に予想が当たっていたとしてもアイリスが離宮に住まわせられることはない。婚約破棄をされ、国外追放される運命なのだから――。
魔獣舎は万一にも魔獣が逃げ出さないようにと、石壁で作られている。無機質な重苦しい雰囲気もあり、研究所の人間以外が近づくことはない。
その手前には研究所の小さな小屋があり、ちょっとした休憩スペースや、仕事道具の収納ができるようになっている。
アイリスたちは小屋に入って、仕事道具の準備を始める。
「アイリス、どうぞ」
「ありがとう」
仕事道具といっても、別に危険なものはない。
魔獣の健康状態をチェックする魔導具に、ブラシやタオルなど、お世話をする道具だ。掃除道具は、魔獣舎の中の棚にしまわれている。
「まずは道具の状態のチェックね。手入れはしっかりされて……ああ、ブラシについた毛がちゃんと取れてないわ」
これではいけないと、アイリスはブラシの手入れから取りかかった。昨日の当番は後輩のリッキーだったはずなので、後で確認した方がいいだろう。
アイリスがブラシの手入れをしていると、ふいにラースの視線が気になった。見ると、ラースがこちらをじっと見ている。
「……どうしたの、ラース」
「いえ。アイリスは熱心に仕事をするな……と」
「そんなの当然じゃない」
ラースの言葉に、アイリスはクスリと笑う。
(でもたぶん、元々の日本人的な性格がそうさせているのかもしれないわね)
アイリスは元々営業事務として働いていた。
そのため仕事の効率化はもちろん、時間厳守など、自然と自分に厳しくなっていたところがある。加えて言うと、残業時間もまあまあ多かった。
「当然って言えるアイリスがすごいんですよ。アイリスほど真面目に働いている人、俺は知らないですから。ここだけの話、アイリスに憧れてる人も多いんですよ?」
「えぇ? まさか!」
ラースの言葉に、アイリスは目を見開いて驚いた。
(前世の職場では、「出来る女でも気取ってるつもり?」って同僚に嫌味を言われることだってあったのに……)
世界――職場環境が違うとこうも変わるのかとアイリスは思う。
同僚や後輩に慕われるということは、くすぐったくもあるが嬉しい。しかし逆に、クリストファーやその取り巻きの令嬢など……よく思っていない人間がいることも確かだ。
「俺だって、アイリスに憧れてるひとりですけど? ね、先輩」
「ふふっ、なら後輩にいいところを見せなきゃいけないわね」
アイリスは手入れの終わった仕事道具を腰のベルトに付けて、「今日も頑張りましょう」とラースを連れて魔獣舎へ移動した。
魔獣舎は通路があって、下に藁が敷かれている。作りは牛舎などとそう変わらないかもしれない。
しかし、魔獣が逃げないように頑丈な檻や鎖がある。
それを見るとどこか痛々しい気持ちになってしまうが、檻がなければ魔獣を王宮内へ入れることはできない。
アイリスは魔獣たちが少しでも快適に暮らせるようになったらいいと思い、一生懸命お世話などをしているのだ。
「おはよう、みんな」
「今日は徹底的に掃除をしますよ」
アイリスとラースが魔獣舎へ入ると、魔獣たちから一斉に視線を向けられた。
魔獣舎にいる魔獣は、現在三頭。
一頭目は、三メートルの巨体を持つルイ。見た目は狼に近く、真っ黒の毛並みをしている。鋭い牙と爪で攻撃をしかけてくる恐ろしい魔獣だ。
二頭目は、ケットシーのネネ。外見は猫に似ていて、尻尾が九本ある魔獣。魔法も使って攻撃してくるので、外で出会ったら厄介な相手だ。
三頭目は、一角獣のアーサー。馬の頭に一本の角が生えた魔獣で、比較的大人しい。慣れたら馬のように乗りこなすこともできる魔物だ。
この三頭は、瘴気を発していない。
瘴気を発していない理由は、三頭がつけている首輪にからくりがある。この首輪は一部が魔導具になっていて、瘴気を抑える効果が付帯されているのだ。
そのため瘴気が発生せず、三頭は人間と共に生活ができている。
そして瘴気がないおかげなのか、その性格も従来の魔物のような凶暴性はなくなっているし、人間の味方として魔物とも戦ってくれるのだ。
こちらの言葉を理解して、動いてくれている。
『おう、アイリス!』
「調子はどう? ルイ」
『絶好調だ! でも、そいつも一緒なのか……』
アイリスに話しかけてきたのは、この魔獣舎のボス的立ち位置にいるルイ。魔獣舎の一番奥に檻がある。巨体で偉そうだけれど、甘えん坊なところがある。
そしてなぜかルイは――アイリスとラースがいるときだけ人間の言葉を話す。
なので、みんなから恐ろしい魔獣だと恐れられているルイが、アイリスはまったく怖くない。ただ、それもあってアイリスが魔獣舎の掃除やみんなの世話を頼まれることが多いけれど。
ルイが協力してくれるとほかの二頭が大人しいので、アイリスとしてはやりやすいし、お世話が好きなので問題はない。
「アイリスは本当にルイに好かれてますね」
「好かれるのは嬉しいけど、何だか不思議」
なぜ私?という疑問が浮かぶが、ルイ曰く『一緒にいると落ち着く』ということらしい。もしかしたら、アイリスが闇属性ということに関係しているのかもしれない。
アイリスは軽く腕まくりをして、ホークを取り出した。これは四俣になっている農具で、藁を持ち上げるときなどに使うものだ。
「それじゃあ、掃除をしていきますか」
「俺は新しい藁を運んできますね」
「うん、お願い!」
ラースが藁を取りに行ってくれている間に、アイリスは今敷いてある藁を檻からかき出していく。藁は定期的に取り換え衛生面もきちんと管理している。
アイリスがせっせと作業していると、ルイが『手伝ってやるよ』と前脚で藁を檻からかき出し始めた。パワーがあるので、一回でかき出す藁の量がアイリスの倍くらいある。
「ありがとう、助かるわ」
『おう!』
さすがに外にルイを出したらほかの人に驚かれてしまうので、運んでもらうのは入り口付近までだ。
『お前らも手伝え!』
『ニャッ』
『ブルルッ』
「ありがと~」
ルイの掛け声で、ネネとアーサーも手伝ってくれる。この二頭は喋ることはできないけれど、言葉はわかるようで、アイリスはルイを介して意思疎通をとっている。
アイリスたちがせっせと藁をかき出していると、ちょうどラースが戻ってきた。
「お待たせ、アイリス」
「ありがとう、ラース! ……って、それ何?」
いつもは手押し車で新しい藁を運んできていたのだが、今日はラースの横で藁の詰まった箱が浮いている。
取っ手が付いているので、それで方向などを調整しているのだろうけれど……アイリスの脳内はクエスチョンマークが浮かんでいる。
「藁運び用の魔導具を開発したんです。これならアイリスでも楽に藁を運べると思って。ほら、いつもは手押し車で何往復かするから大変だったでしょう?」
「いやいやいやいや、待って? それって新しい魔導具よね? ラースの趣味が魔導具製作っていうのは知ってたけど、そう簡単に作れるものじゃないわよね?」
魔導具は誰でも作れるものではない。
知識や材料などが必要なのはもちろんだが、製作の際に魔力も必要になってくる。研究により量産されているものもあるが、そうでなければ難しいはずだ。
ましてや新しいものを作り出すなんて、とんでもないことのはずなのだ。
「アイリスの仕事効率が上がっていいかなと思いまして」
「魔導具ってそんな理由で開発できるものじゃないと思うんだけど……」
もしかしたらラースはものすごい才能を持っているのではないだろうか。アイリスがそう考えていると、ラースが捨てられた子犬のような目でこちらを見ていた。
(……もしかして褒めてほしいのかしら?)
否定的な言葉ばかりで驚いていたことに気づいて、アイリスは「純粋にすごいと思うわ」と口にした。
「私は魔導具を作れないから、簡単に作ってるのを見ると憧れちゃうわね」
そう言いながら、何かないかなと腰に付けたポーチの中を探してみると飴が出てきた。疲れたときに糖分補給として持ち歩いているものだ。
「魔導具のお礼には全然足りないけど……はい、飴ちゃん」
「! ありがとうございます」
可愛らしいパステルカラーの包み紙にくるまれた飴をあげると、ラースはぱああぁっと笑顔になって喜んでくれた。
(その反応は嬉しいけど、この子ちょろすぎじゃないかしら?)
と、何となくラースが心配になってしまうアイリスだった。
アイリスとラースは藁をどかした魔獣舎の床をデッキブラシで擦ったりして清掃を終わらせた後、新しい藁を敷き詰めた。
それからルイたちのブラッシングもしてあげると、とても気持ちよさそうにしてくれる。凶暴な魔獣といわれてはいるけれど、今のルイたちはとても可愛い。
窓を開けて空気の入れ替えもしたので、とても清々しい気持ちだ。
「ふー。これでいいわね」
「お疲れ様です、アイリス」
「うん。ラースもお疲れ様」
魔獣の世話が終わったので、後は研究所に戻って通常業務を行うだけだ。
(でも、その前にお昼休憩ね)
働いた後のご飯ほど美味しいものはない。アイリスがルンルン気分でいると、ルイがこちらにやってきた。
『綺麗にしてくれてサンキューな、アイリス!』
ルイはそう言うと、アイリスの頬にすり寄ってきた。もふもふの黒い毛が当たってくすぐったいけれど、ふわふわなので気持ちがいい。
「どういたしまして」
アイリスもルイにぎゅっと抱きついて、思いっきりもふもふ具合を堪能させてもらう。
(うう、労働の後の癒しにもふもふは最高だわ……!)
魔物だという理由だけでルイたちを恐れている人たちは、本当にもったいないことをしていると思う。
アイリスがしばらくもふもふを堪能していると、袖をクイッと引っ張られた。
「ルイばかりずるいです」
袖を引っ張った犯人はラースで、羨ましそうな視線をルイに向けている。
(……えーーっと? これはラースもルイのもふもふを堪能したいってことかしら?)
アイリスはラースの言い方に首を傾げつつも、「どうぞ」とルイの前からどいた。すると、ラースは「違いますよ」と言ってアイリスの頭に頬をつけてきた。
「俺が羨ましいと思ったのは、ルイです」
「ラース!?」
「駄目ですか?」
そう言ったラースの頭には、垂れた犬の耳が見えそうだ。捨てられた子犬のような顔をされてしまうと、まるでアイリスが間違っているようではないか。
「く……っ、そんな可愛い顔をしても、駄目よ!」
「……残念」
ラースはクスリと笑って、アイリスから離れてくれた。ちょっとそれを残念に思ってしまいながらも、アイリスはドキドキしていた心臓を落ち着かせる。
悪役令嬢とはいえ、今のアイリスはクリストファーの婚約者だ。こんなところを目撃されたら、アイリスもラースも簡単な処罰では済まないだろう。
「ほら、魔獣舎での仕事は終わったんだからお昼にしましょう」
「はい! ご一緒します!」
アイリスとラースはルイたちに挨拶をして、軽く汗を流してから食堂へ向かった。
(ああ、いつもの令嬢たちか)
そう思うと、もうため息も出ない。
そして耳を澄まさずとも聞こえてくる、いつもの台詞。
「……いったい、いつまでクリストファー殿下の婚約者でいるつもりかしら?」
「研究研究、研究ばかりで、せっかくわたくしがお茶会へ招待しているのに、いらっしゃらないんですもの。これでは王妃なんてとても務まりませんわね」
「しかも魔物の研究をしているなんて! 野蛮だわ……恐ろしい……」
コソコソと自分の悪口を言う令嬢たちには、もう慣れた。
文句のひとつでも言ってやればいいのかもしれないけれど、彼女たちに使う時間も惜しい。だからアイリスは気にせず通り過ぎることにしている。
(お茶会に参加することだけが王妃の役目なら、魔物がいるこの世界はとうに滅んでいるでしょうね)
と、これくらいの悪態は心の中でつくけれど。
アイリスは生まれたときから、この世界のことを知っていた。
正確にいえば、この世界が舞台になっている乙女ゲームをプレイしていた――というのが正しいだろうか。
その記憶はもう二十年も前だというのに、意外にもしっかり覚えている。
乙女ゲーム『リリーディアの乙女』。
瘴気がはびこるオリオン王国は、魔物の数が増え、このままでは国が滅びてしまう……という危機に陥り誰もが恐怖を抱いていた。
そんなとき、神託があった。
魔物が発する瘴気を浄化する絶対的な力を持つ乙女――この物語の主人公がいると。
主人公は愛の力が強くなるほど浄化する力が強くなる。
攻略対象キャラクターと恋愛をし、魔物を浄化してオリオン王国を救うという壮大な乙女ゲームだ。
――そんな乙女ゲームの世界で、アイリスは悪役令嬢に転生した。
侯爵家の令嬢、アイリス・ファーリエ。二十歳。
プラチナブロンドの長い髪に、凛とした菖蒲色の瞳。身長は百六十七センチメートルと少し高めだが、可愛いより綺麗目な顔立ちとは相性がいい。
甘いミルクティーは好きだけれど、女同士の腹の探り合いが行われるお茶会はあまり好きではない。それなら、職場で働いている方がいいと考えてしまうワーカーホリック女子だ。
今はドレスではなく、職場の制服に身を包んでいる。
白の白衣をベースにしたもので、紺色の細いベルトをあしらったデザインだ。グレーのシャツは水色に白のストライプが入ったリボンタイをつけていて、上品な仕上がりになっている。
というのが――悪役令嬢になった彼女の姿と名前。
そう、アイリスは現代日本で暮らしていたが、何らかの理由でこの世界に転生したのだ。
けれど、悲観してはいない。
元々『リリーディアの乙女』は好きだったので、死んでしまったことは悲しいけれど……ゲームの世界に転生できたこと自体は嬉しかったからだ。
そしてあまり悲観していない理由のひとつに、悪役令嬢である自分の処遇というものがある。
ゲームでのアイリスは、将来的に婚約者の王子に婚約破棄を突きつけられる。そしてその後、国外追放という罰が下る。
そう、別に処刑されるような過酷な未来が待っているわけではないのだ。
このまま貴族と政略結婚をさせられ、愛のない結婚生活を送るくらいならば……アイリスはその処罰を受け入れようと思っている。
いや、ぜひ受け入れたいのだ!
前世のアイリスは日本で会社員をしていたので、別に貴族の身分を剥奪されて国外追放されたところで、何の問題もない。
大学時代からひとり暮らしをしていたので、大抵のことは自分ひとりでできる。
アルバイトもいろいろやったし、就職してからも真面目に働いた。……ただ、自分の真面目すぎた性格のせいで、どうにも恋愛面だけは上手くいかなかったけれど……。
……恐らくそれが、アイリスが乙女ゲームをやり始めた理由だろうか。
というような人生を経て、転生する前は神経も図太くなってきたアラサーだった。そのため、逆に追放が楽しみだったりする。
独り立ち万歳、だ。
ただ残念だったのは――乙女ゲームは所詮、都合のいいゲームだったということだろうか。
アイリスが気にせず廊下を歩いていると、ちょうど曲がり角に人影が見えた。
(うわ、まさかこんなところで会うなんて)
曲がり角からこちらにやってきた人物は、アイリスが会いたくない相手ナンバーワン――このゲームのメイン攻略対象、つまりアイリスの婚約者だった。
彼はアイリスを見るなり、口を開いた。
「アイリスじゃないか。まだ研究所にいるのか? いい加減、そんなところで働くのは止めてほしいものだが……」
「…………」
思わずアイリスの頬も引きつるというものだ。
「聞いているのか? 俺の婚約者として、恥ずかしくないように心がけてほしいと言っているんだよ」
(親しくないかもしれないけれど、親しき中にも礼儀ありという言葉を知らないのかしら?)
――と、アイリスは思う。
挨拶もなく話し始めたのは、この国の王太子クリストファー・オリオン。二十歳。
全女子が「王子様だ!」と言うだろう整った容姿は、サラサラの金色の髪と、金に近い水色の瞳からできあがっている。
すらりと伸びた手足に、鍛えられた逞しい身体。誰もが目を奪われてしまうだろう。
かくいう前世のアイリスも、実はそのうちのひとりなのだが……悪役令嬢となった今は、黒歴史だったと思うことにしている。
クリストファーはアイリスの態度なんてまったく気にせず、続けて話す。
「はああぁ。君がほかの令嬢たちから、何と言われているか知っているか? 人間の男よりも、魔物が好きな令嬢なんて呼ばれて――」
「アイリス、こんなところにいたんですか。今日は魔獣舎へ行く予定ですよ」
「――誰だ! 俺の言葉を遮ったのは!!」
これは話が長くなりそうだと思っていたら、何とも無礼にクリストファーの言葉を遮った強者がいた。
不敬な行為だけれど、アイリスは心の中でそっと拍手を送った。
やってきたのは、アイリスの同僚のラース。十七歳。
長い黒髪を後ろで一つに結んでいる。右側の前髪は片目が隠れるほどに長く、金の縁取りの眼鏡をかけている。そこから見える瞳は薄紫で、透明度の高い水晶のようだ。
前髪と眼鏡のせいで顔はあまり見えないのだけれど、王宮魔獣研究所の制服を見事に着こなしていることもあって、アイリスは密かにイケメンだと思っている。
ラースの制服は、ベースはアイリスと同じ作りだが、朱色の細いベルトをあしらったデザインだ。朱色のネクタイには白のクロスストライプが入っている。
そんなラースは身分というものにあまりこだわりがないようで、気にしないことが多い。いつか不敬罪で処罰されないといいのだけれど……とアイリスは心配している。
ラースは、クリストファーを見て首を傾げてみせた。
「しかし、このままではアイリスが仕事に遅れてしまいますよ。あなたのせいでアイリスの仕事の評価が悪くなるのはどうかと」
「…………は?」
よくもまあ、クリストファーにここまで言えたものだとアイリスは感心する。
クリストファーはといえば、きっとそんなことを言われたこともないのだろう。口をパクパクして言葉を失っている。
「探しちゃいましたよ。今日は徹底的に掃除をしようと思っていたので、アイリスがいなかったら大変でした」
「あら、それは確かに大変だわ。ごめんなさいね。探しに来てくれてありがとう、ラース」
ラースはアイリスの返事に頷くと、「行きましょう」と歩き出した。どうやらクリストファーのことは気にしないことにしたようだ。
(どうしたらこんなに強メンタルになれるのかしら……)
侯爵家の令嬢で、婚約者のアイリスも、さすがにここまでの態度はとれないというのに。
とはいえクリストファーの言葉は度がすぎることも多々あるので、ラースのことを見習った方がいいかもしれないとも思ってしまう。
「仕事ですので、失礼いたします」
アイリスは軽く礼を取り、ラースの後を追った。
アイリスやラースは『王宮魔獣研究所』に勤めている。
ここは魔物の中でも魔獣に分類されるものを研究している機関だ。
魔獣とは、魔物の中で動物型に区分されるもののことで、もっとも数が多い。ほかの区分には、核というものを持つ小さな竜巻や、ゲームでは定番のスライムのような魔物もいる。
魔物は、存在するだけで瘴気を発する。
瘴気は大地を蝕んでいくため土地が痩せ、空気が濁り、人の身体に不調をきたす。人々は日夜、瘴気が増え続けないよう対策に奔走している。
定期的に魔物の討伐はされているが、生息地や生態などの研究を進めていくことでよりスムーズに行うことができる。
この研究所の研究は、弱点を始めとした魔獣の生態はもちろんのこと、人間と共存できる可能性というのも含まれる。
そのため、研究所には魔獣舎があり魔獣が飼育されているのだ。
「それにしても……ラース、今の人が誰か知らなかった……何てこと、ないわよね?」
ラースは研究に没頭するところがある。魔獣だけではなく、趣味で魔導具の開発なんてこともしているとアイリスは以前聞いたことがあった。
そういったことに夢中になりすぎて、ほかのことは一切知らないのでは……とアイリスは考えてしまったのだ。
アイリスの問いかけに、ラースはきょとりと目を瞬かせて笑った。
「さすがに俺だって、この国の第一王子の顔くらいは知っていますよ」
「知っていてあの態度だったの……」
なんて怖いもの知らずなのだろうか。
しかしラースは、クリストファーに絡まれているアイリスを助けてくれたのだろう。
ラースでなければ、アイリスとクリストファーの間に入ってくるような人間はいないだろうから……。
「ラースがもし処罰されたら、と考えたら褒められる行為ではないんだけど……。私は助かったわ。ありがとう、ラース」
「いえいえ。アイリスのお役に立ててよかったです」
「でも、無茶だけはしないでね」
「はい」
ラースが嬉しそうに返事をしてくれたので、アイリスは仕方がないと肩をすくめた。
しばらく廊下を歩き、アイリスたちは中庭に出た。
ここから十五分ほど歩いたところに魔獣舎があるのだ。地味に遠いのは、王城の建物の近くに魔獣舎を作る許可が下りなかったからだ。
(個人的には、散歩にちょうどいい距離なのよね)
魔獣舎に続く道とはいえ、王城の庭なのできちんと手入れがされている。歩きやすいように歩道は舗装され、花壇には可愛らしい花が咲いているので見ていて楽しい。
その花壇の道を抜けると、今度は木々が多くなる。林とまではいかないけれど、騎士がちょっとした訓練をすることはできるそうだ。
そんな中、ふと工事をしている様子が目に入った。
「あら? あんなところで工事なんてしていたかしら?」
魔獣舎から歩いて五分ほどのところで人が集まり、建設しているようだ。
特にアイリスの耳には届いていないので、研究所関連ではないだろうけれど……さすがに魔獣舎に近すぎのように思う。
そんなアイリスの疑問に答えをくれたのは、ラースだ。
「新しい離宮が建つんです」
「え? あんなところに離宮が?」
離宮といえば、そこで生活するのは大抵身分がある王族やその愛妾などだが……王族が魔獣舎の近くで暮らすとは思えない。
「いったい誰が住むのかしら。……まあ、私たちには関係のないことね。行きましょう、ラース。これ以上遅くなると仕事に遅れてしまうし、ルイたちが待ってるわ」
「はい」
――一瞬だけ、アイリスの脳裏に嫌な考えが浮かんだ。
クリストファーと結婚後、自身を追いやるための離宮では……?と思ってしまったのだ。嫌っている嫁を隔離するにはちょうどいい、と。
(って、さすがにそれはないわね)
アイリスは首を振って考えなかったことにする。
大丈夫、仮に予想が当たっていたとしてもアイリスが離宮に住まわせられることはない。婚約破棄をされ、国外追放される運命なのだから――。
魔獣舎は万一にも魔獣が逃げ出さないようにと、石壁で作られている。無機質な重苦しい雰囲気もあり、研究所の人間以外が近づくことはない。
その手前には研究所の小さな小屋があり、ちょっとした休憩スペースや、仕事道具の収納ができるようになっている。
アイリスたちは小屋に入って、仕事道具の準備を始める。
「アイリス、どうぞ」
「ありがとう」
仕事道具といっても、別に危険なものはない。
魔獣の健康状態をチェックする魔導具に、ブラシやタオルなど、お世話をする道具だ。掃除道具は、魔獣舎の中の棚にしまわれている。
「まずは道具の状態のチェックね。手入れはしっかりされて……ああ、ブラシについた毛がちゃんと取れてないわ」
これではいけないと、アイリスはブラシの手入れから取りかかった。昨日の当番は後輩のリッキーだったはずなので、後で確認した方がいいだろう。
アイリスがブラシの手入れをしていると、ふいにラースの視線が気になった。見ると、ラースがこちらをじっと見ている。
「……どうしたの、ラース」
「いえ。アイリスは熱心に仕事をするな……と」
「そんなの当然じゃない」
ラースの言葉に、アイリスはクスリと笑う。
(でもたぶん、元々の日本人的な性格がそうさせているのかもしれないわね)
アイリスは元々営業事務として働いていた。
そのため仕事の効率化はもちろん、時間厳守など、自然と自分に厳しくなっていたところがある。加えて言うと、残業時間もまあまあ多かった。
「当然って言えるアイリスがすごいんですよ。アイリスほど真面目に働いている人、俺は知らないですから。ここだけの話、アイリスに憧れてる人も多いんですよ?」
「えぇ? まさか!」
ラースの言葉に、アイリスは目を見開いて驚いた。
(前世の職場では、「出来る女でも気取ってるつもり?」って同僚に嫌味を言われることだってあったのに……)
世界――職場環境が違うとこうも変わるのかとアイリスは思う。
同僚や後輩に慕われるということは、くすぐったくもあるが嬉しい。しかし逆に、クリストファーやその取り巻きの令嬢など……よく思っていない人間がいることも確かだ。
「俺だって、アイリスに憧れてるひとりですけど? ね、先輩」
「ふふっ、なら後輩にいいところを見せなきゃいけないわね」
アイリスは手入れの終わった仕事道具を腰のベルトに付けて、「今日も頑張りましょう」とラースを連れて魔獣舎へ移動した。
魔獣舎は通路があって、下に藁が敷かれている。作りは牛舎などとそう変わらないかもしれない。
しかし、魔獣が逃げないように頑丈な檻や鎖がある。
それを見るとどこか痛々しい気持ちになってしまうが、檻がなければ魔獣を王宮内へ入れることはできない。
アイリスは魔獣たちが少しでも快適に暮らせるようになったらいいと思い、一生懸命お世話などをしているのだ。
「おはよう、みんな」
「今日は徹底的に掃除をしますよ」
アイリスとラースが魔獣舎へ入ると、魔獣たちから一斉に視線を向けられた。
魔獣舎にいる魔獣は、現在三頭。
一頭目は、三メートルの巨体を持つルイ。見た目は狼に近く、真っ黒の毛並みをしている。鋭い牙と爪で攻撃をしかけてくる恐ろしい魔獣だ。
二頭目は、ケットシーのネネ。外見は猫に似ていて、尻尾が九本ある魔獣。魔法も使って攻撃してくるので、外で出会ったら厄介な相手だ。
三頭目は、一角獣のアーサー。馬の頭に一本の角が生えた魔獣で、比較的大人しい。慣れたら馬のように乗りこなすこともできる魔物だ。
この三頭は、瘴気を発していない。
瘴気を発していない理由は、三頭がつけている首輪にからくりがある。この首輪は一部が魔導具になっていて、瘴気を抑える効果が付帯されているのだ。
そのため瘴気が発生せず、三頭は人間と共に生活ができている。
そして瘴気がないおかげなのか、その性格も従来の魔物のような凶暴性はなくなっているし、人間の味方として魔物とも戦ってくれるのだ。
こちらの言葉を理解して、動いてくれている。
『おう、アイリス!』
「調子はどう? ルイ」
『絶好調だ! でも、そいつも一緒なのか……』
アイリスに話しかけてきたのは、この魔獣舎のボス的立ち位置にいるルイ。魔獣舎の一番奥に檻がある。巨体で偉そうだけれど、甘えん坊なところがある。
そしてなぜかルイは――アイリスとラースがいるときだけ人間の言葉を話す。
なので、みんなから恐ろしい魔獣だと恐れられているルイが、アイリスはまったく怖くない。ただ、それもあってアイリスが魔獣舎の掃除やみんなの世話を頼まれることが多いけれど。
ルイが協力してくれるとほかの二頭が大人しいので、アイリスとしてはやりやすいし、お世話が好きなので問題はない。
「アイリスは本当にルイに好かれてますね」
「好かれるのは嬉しいけど、何だか不思議」
なぜ私?という疑問が浮かぶが、ルイ曰く『一緒にいると落ち着く』ということらしい。もしかしたら、アイリスが闇属性ということに関係しているのかもしれない。
アイリスは軽く腕まくりをして、ホークを取り出した。これは四俣になっている農具で、藁を持ち上げるときなどに使うものだ。
「それじゃあ、掃除をしていきますか」
「俺は新しい藁を運んできますね」
「うん、お願い!」
ラースが藁を取りに行ってくれている間に、アイリスは今敷いてある藁を檻からかき出していく。藁は定期的に取り換え衛生面もきちんと管理している。
アイリスがせっせと作業していると、ルイが『手伝ってやるよ』と前脚で藁を檻からかき出し始めた。パワーがあるので、一回でかき出す藁の量がアイリスの倍くらいある。
「ありがとう、助かるわ」
『おう!』
さすがに外にルイを出したらほかの人に驚かれてしまうので、運んでもらうのは入り口付近までだ。
『お前らも手伝え!』
『ニャッ』
『ブルルッ』
「ありがと~」
ルイの掛け声で、ネネとアーサーも手伝ってくれる。この二頭は喋ることはできないけれど、言葉はわかるようで、アイリスはルイを介して意思疎通をとっている。
アイリスたちがせっせと藁をかき出していると、ちょうどラースが戻ってきた。
「お待たせ、アイリス」
「ありがとう、ラース! ……って、それ何?」
いつもは手押し車で新しい藁を運んできていたのだが、今日はラースの横で藁の詰まった箱が浮いている。
取っ手が付いているので、それで方向などを調整しているのだろうけれど……アイリスの脳内はクエスチョンマークが浮かんでいる。
「藁運び用の魔導具を開発したんです。これならアイリスでも楽に藁を運べると思って。ほら、いつもは手押し車で何往復かするから大変だったでしょう?」
「いやいやいやいや、待って? それって新しい魔導具よね? ラースの趣味が魔導具製作っていうのは知ってたけど、そう簡単に作れるものじゃないわよね?」
魔導具は誰でも作れるものではない。
知識や材料などが必要なのはもちろんだが、製作の際に魔力も必要になってくる。研究により量産されているものもあるが、そうでなければ難しいはずだ。
ましてや新しいものを作り出すなんて、とんでもないことのはずなのだ。
「アイリスの仕事効率が上がっていいかなと思いまして」
「魔導具ってそんな理由で開発できるものじゃないと思うんだけど……」
もしかしたらラースはものすごい才能を持っているのではないだろうか。アイリスがそう考えていると、ラースが捨てられた子犬のような目でこちらを見ていた。
(……もしかして褒めてほしいのかしら?)
否定的な言葉ばかりで驚いていたことに気づいて、アイリスは「純粋にすごいと思うわ」と口にした。
「私は魔導具を作れないから、簡単に作ってるのを見ると憧れちゃうわね」
そう言いながら、何かないかなと腰に付けたポーチの中を探してみると飴が出てきた。疲れたときに糖分補給として持ち歩いているものだ。
「魔導具のお礼には全然足りないけど……はい、飴ちゃん」
「! ありがとうございます」
可愛らしいパステルカラーの包み紙にくるまれた飴をあげると、ラースはぱああぁっと笑顔になって喜んでくれた。
(その反応は嬉しいけど、この子ちょろすぎじゃないかしら?)
と、何となくラースが心配になってしまうアイリスだった。
アイリスとラースは藁をどかした魔獣舎の床をデッキブラシで擦ったりして清掃を終わらせた後、新しい藁を敷き詰めた。
それからルイたちのブラッシングもしてあげると、とても気持ちよさそうにしてくれる。凶暴な魔獣といわれてはいるけれど、今のルイたちはとても可愛い。
窓を開けて空気の入れ替えもしたので、とても清々しい気持ちだ。
「ふー。これでいいわね」
「お疲れ様です、アイリス」
「うん。ラースもお疲れ様」
魔獣の世話が終わったので、後は研究所に戻って通常業務を行うだけだ。
(でも、その前にお昼休憩ね)
働いた後のご飯ほど美味しいものはない。アイリスがルンルン気分でいると、ルイがこちらにやってきた。
『綺麗にしてくれてサンキューな、アイリス!』
ルイはそう言うと、アイリスの頬にすり寄ってきた。もふもふの黒い毛が当たってくすぐったいけれど、ふわふわなので気持ちがいい。
「どういたしまして」
アイリスもルイにぎゅっと抱きついて、思いっきりもふもふ具合を堪能させてもらう。
(うう、労働の後の癒しにもふもふは最高だわ……!)
魔物だという理由だけでルイたちを恐れている人たちは、本当にもったいないことをしていると思う。
アイリスがしばらくもふもふを堪能していると、袖をクイッと引っ張られた。
「ルイばかりずるいです」
袖を引っ張った犯人はラースで、羨ましそうな視線をルイに向けている。
(……えーーっと? これはラースもルイのもふもふを堪能したいってことかしら?)
アイリスはラースの言い方に首を傾げつつも、「どうぞ」とルイの前からどいた。すると、ラースは「違いますよ」と言ってアイリスの頭に頬をつけてきた。
「俺が羨ましいと思ったのは、ルイです」
「ラース!?」
「駄目ですか?」
そう言ったラースの頭には、垂れた犬の耳が見えそうだ。捨てられた子犬のような顔をされてしまうと、まるでアイリスが間違っているようではないか。
「く……っ、そんな可愛い顔をしても、駄目よ!」
「……残念」
ラースはクスリと笑って、アイリスから離れてくれた。ちょっとそれを残念に思ってしまいながらも、アイリスはドキドキしていた心臓を落ち着かせる。
悪役令嬢とはいえ、今のアイリスはクリストファーの婚約者だ。こんなところを目撃されたら、アイリスもラースも簡単な処罰では済まないだろう。
「ほら、魔獣舎での仕事は終わったんだからお昼にしましょう」
「はい! ご一緒します!」
アイリスとラースはルイたちに挨拶をして、軽く汗を流してから食堂へ向かった。