彼女は赤い傘を忘れる

(1)

 【コルンゴルド作曲 オペラ『死の都』第一幕より】

 〇場所 ブリュージュ。パウルの部屋。
 部屋の中の机や棚にはパウルの妻マリーの写真が置かれ、壁にはマリーの等身大の肖像画が飾ってある。家政婦のブリジエッタとフランクが部屋に入ってくる。フランクはこの部屋の主パウルの友人である。
 フランクは絵を眺め、それから机の上の写真を手に取る。
「美しい人だったんだ・・・マリーは」
 ブリジエッタが装飾された小箱を示す。
「箱の中には遺髪が・・・ご主人様は亡くなった奥様のことが忘れられず、思い出に浸っているのです」
 彼女は周囲を窺う。
「ところが、昨日、外出から戻ってきたご主人様は、妻に会えると、それはもう大喜びでした」
 そこへ、この部屋の主人パウルがやってくる。パウルは興奮した面持ちで話す。
「聞いてくれ、フランク。もうすぐマリーが来る、戻ってくるんだ」
「マリーはすでに亡くなったんじゃないか」
「違うよ、マリーは生きている」
 マリーが現れる。マリーはパウルに微笑みかけ、ゆっくりと部屋の中を歩く。
「昨日、マリーとそっくりな女性に逢ったんだ。あれはマリーだ。髪も着ている服もすべて一緒だった、この絵のように。願いが通じた。だからこの部屋に招いたのさ」
 マリーはパウルの話に頷く。
 フランクは、「君は夢を見ているんだ」と言って出ていく。
 入れ違いにマリエッタが入ってくる。彼女は白いコートに赤い傘を持っている。マリエッタは赤い傘をテーブルに立てかけ、部屋を見回す。
「あなたが誘うから来たのよ。だけど、この部屋、何だか窒息しそうになるわ」
 マリーはパウルとマリエッタの間を縫うように歩く。
 大きな絵の前でマリエッタがポーズをとる。パウルはマリエッタに向かってマリーと呼びかける。
「マリー」
「私はマリエッタよ」
 パウルはうなだれてソファに腰を下ろす。その傍らにマリーが座る。
 マリエッタはコートを脱ぎ捨てる。
「一曲歌うわね」
 マリエッタが、私に残された幸せ・・・と歌う。

 *****

「死の・・・都」
 マスターがマドラーを落としそうになった。
「題名だけ聞くと廃墟になった町の話を想像するかもしれませんが、『死の都』は幻想的でロマンティックなオペラです」
 津川将司はそう答えてからジントニックを口に含んだ。『三船屋』は地下鉄六本木駅からほど近い路地裏にある。テーブル席が三つとカウンターだけの小さな店だ。場所柄、外国人のお客も多い。今夜もテーブル席からは英語が聞こえてくる。
「『死の都』が作られたのは1920年、作曲したのは、コルンゴルドです。ロマン派最後のオペラと言えます」
「あまり聞いたことがないですね、コルンゴルドというのは」
「コルンゴルドはオーストリア出身で、『死の都』を作曲したのは23歳のときでした。その後、第二次世界大戦中にアメリカに渡って映画音楽を手がけています」
 テーブル席の外国人客がマスターを呼んだ。マスターは、失礼と言って注文を聞きに行き、新しいボトルを置いてすぐに戻ってきた。
「それで、『死の都』は、どんなオペラなんです」
「オペラの舞台はブリュージュという町です。主人公はパウルという男性で、彼は妻のマリーに先立たれました。年齢は三十代後半か四十代でしょう。つまり、亡くなった奥さんも若かったんですね。パウルはマリーのことが忘れられない、妻が死んだことが受け入れられない。そこで、部屋の中にマリーの写真や遺品、等身大の肖像画などを飾っているんです。そこへ、町で逢った女性が現れ・・・」

 店の扉が開いた。
 入ってきたのは二十代後半と思われる女性だった。身長は165センチくらい、足が長くて紺のパンツスーツが似合っている。形の良い眉、大きな目、マスクをしていても美人だと分かる。津川は、マリエッタが登場するシーンを話していたタイミングでもあり、彼女が傘を持っていたので、本当にマリエッタが来たのかと思った。
「やあ」マスターが軽く手を上げた。彼女は「こんばんは」と言って、カウンター席に座った。津川の座る椅子とは一つ間を空けた。
「うちの姪です」
 マスターが頭を掻いた。
「野々宮歩夢です」
「津川将司です」
「どうした、また何か相談事があるのかい」
「ごめんなさいね、身の上相談があるときだけ来ちゃって。叔父様、聞いてよ」
 野々宮歩夢は津川をチラリと見た。個人的な相談を見ず知らずの人に聞かれたくないのだろう。
 歩夢が何か言いたそうな表情を見せるのをマスターが制して、
「津川さん、それからオペラはどうなりますか」
 と、話の続きを促した。
「では、オペラの話を続けます。そうでした、町で見かけた女性が来た、という件りでしたよね」
 津川は話を続けた。だが、野々宮歩夢が相談事があるというので手短にまとめることにした。舞台の演出や歌手の話よりも、興味を引きそうな話題がよさそうだ。
「津川さん、オペラをご覧になるんですか、私まだ見たことないわ」
「僕がオペラを観るようになったのは、大学時代の友人の影響でしてね。彼の祖父がドイツ人だったんです。ワーグナーのオペラを観るためにドイツの歌劇場へ行くほどでした」
 野々宮歩夢を前にして津川はどことなく固い口調になる。
 注文したカクテルがきたので歩夢がマスクを外した。整った顔立ちで、女優かタレントだと言ってもおかしくない。カクテルグラスの持ち方も様になっている。津川は思わぬ出逢いに胸が高鳴った。
「オペラの趣味が仕事上でも役に立ったことがありました。会社で新規の契約が進んでいたとき、相手先の社長がクラシック音楽ファンだと分ったんです。同じ趣味ということで僕が呼ばれ、社長と話が合って契約を取れました。それ以来、文化的な案件があると助っ人を頼まれます」
「ふうん」
 歩夢の前でいいところを見せようと仕事上の自慢話をしたが、期待した反応は得られなかった。
 津川はそこでスマートフォンを取り出した。
「僕が観てきたのは、コルンゴルド作曲の『死の都』というオペラです。オペラといったら、たいていストーリーは荒唐無稽、歌手の歌も大げさ。身近にはありそうもない、非現実的な世界ですけど、コルンゴルドの『死の都』は時代設定といい、登場人物がスーツを着ていたりと、かなり現実的と言えます」
「コルンゴルド? 」
「1920年代、ウィーンで活躍した作曲家です。コルンゴルドはアメリカに渡ってからはハリウッドで映画音楽を作曲し、アカデミー賞を受賞した。現在のハリウッド映画に大きな影響を与えたんです。彼はこんな音楽も作っていますよ」
 スマートフォンを操作して目的の音源を表示させた。マスターが画面を覗き込む。野々宮歩夢も津川の隣の席に移動してきた。
 他の客に聞こえないよう音量を小さくして再生させた。
 短い前奏の後に金管のファンファーレが鳴り響く。
「スターウォーズ! 」
 歩夢がそう言って目を見張った。
 聞こえてきたの『スターウォーズ』のメインテーマを思わせるメロディーである。ファンファーレから次に続くメロディーはまさに『スターウォーズ』だ。
「スターウォーズにそっくり、でも、ちょっと地味な感じがするわね」
「この曲は、コルンゴルドが作曲した、映画『嵐の青春』、原題『キングスロウ』のテーマ音楽です。『スターウォーズ』に比べるとやや抑え気味でしょう」
 興味津々とばかりに歩夢が津川に身体を寄せてきた。『嵐の青春』の音楽は彼女の関心を引き付けたようだ。
「『嵐の青春』は1941年の映画なので、『スターウォーズ』よりも三十年以上前です。『スターウォーズ』の方が参考にしたと言えます」
「盗作にならないんですか、こんなに似ていて」
「コルンゴルドはハリウッドの大先輩ですからね。『スターウォーズ』を作曲したジョン・ウィリアムズにしてみれば、敬意を込めて引用したんでしょう」
「それにしても、そのまんまだわ」
「そうだ、『嵐の青春』には、ロナルド・レーガンが出ていますよ」
「誰ですか、ロナルド・レーガンって」
 歩夢が訊いた。
「そうか、歩夢ちゃんは知らないんだな。レーガンはアメリカ大統領だった男。映画俳優から大統領になったわけ」
 マスターが答えたが歩夢はポカンとしている。
「詳しいのね、津川さん。お幾つ」
「僕は三十二歳です」
「二つしか違わないんだ」
 歩夢は「もちろん私が下よ」と笑った。

「オペラの話に戻しましょう。主人公はパウルという男性で、まだ若いのに奥さんのマリーを亡くしてしまいました。ところが、彼はそれが受け入れられなくて、妻の写真や思い出の品を部屋に飾っているんです。等身大の肖像画を壁に掛けてあったりします。友人が、マリーはもうこの世にはいないと言っても、パウルは生きていると言い張ります」
 津川がそう話したとき、野々宮歩夢はスッと身体を引いた。『スターウォーズ』には関心をみせたが、オペラのストーリー自体には興味がなさそうだ。これは致し方ない。
「そこへ、前日、町で見かけたマリエッタという女性が訪ねてきます。マリエッタは旅芸人の女優です。彼女はパウルの部屋の中を見て驚きます。亡くなった奥さんのことが忘れられず、写真や思い出の品々、肖像画に囲まれているんですからね。しかも、パウルはマリエッタに向かってマリーと呼びかけてしまいます。マリエッタは妻のマリーに面影が似ていたんです」
 歩夢は津川の話を黙って聞いている。
「『死の都』の第一幕はこんな風に進んで、第二幕、第三幕はいささか幻想的な雰囲気になります」
 話が長くなり、歩夢が退屈してきたようなので津川はそこでやめた。
 今回の上演では、死んだマリーが舞台上に現れるという演出だった。原作にはない演出だ。マリーの姿は観客からは見えているが、舞台の上の人物には見えていないという設定である。
 パウルを挟んで両脇にマリーとマリエッタが座るシーンがあった。観客にはマリーの姿が目に入っているのだが、パウルとマリエッはマリーの存在に気が付かない。マリエッタの側にマリーが座り、パウルがそれを眺めるシーンでは、そっくりな二人が並んでいて美しく幻想的だった。
 オペラにおける演出とは、音楽と歌詞はそのままで、見せ方を変えるのである。しかし、そこまで詳しく話すのはやめた方がよいだろう。野々宮歩夢はマスターに相談があると言っていた。自分だけが時間を独占してはいけない。
「マスター、僕はこれで・・・」
 津川はそう言って腰を浮かせた。それを歩夢が引き留めた。
「津川さんも聞いてください」
「おいおい、人生相談に津川さんを巻き込むなよ、今日初めて逢ったばかりだろう」
「だって、『死の都』に関係あるんですもの、いいでしょう」
 オペラに関係がある・・・そう聞いて津川は帰るわけにいかなくなった。

 野々宮歩夢はカクテルを飲み干した。いい飲みっぷりである。大きなため息をつき、それから話し始めた。
「彼のことなんだけど」
 マスターは予想通りといった感じで津川を見た。津川は、男性に関する身の上相談を聞かされるのはあまり気が進まなかった。しかし、退散するにも、きっかけを失ってしまったので歩夢の話に付き合うことにした。
「久し振りに合コン行ったんですよ。私以外はみんな二十代だったけどね。そこで知り合った男性、外資系企業、イケメン、しかも一個下。あり得ない好条件でしょ。最初のデートは、横浜のみなとみらいで、赤レンガ倉庫周辺、横浜スタジアムとかも行った。だけど、こっちは野球に興味ないし。赤レンガでは倉庫をバックに写真撮って、おしまいよ」
 歩夢がカクテルのおかわりを頼んだ。お酒の力を借りなければ話せことなのか。
「津川さん、アイドル好き? 誰かファンいる? 」
 いきなりアイドルの話題に変わった。話の行先がどこへ向かうのか分からない。
「AKB48は見てましたが、特に誰かのファンにはならなかった。乃木坂46もデビューしたころは見てたなあ」
「握手会とか行ったことあります? 」
 津川は首を振った。
「ああ、良かった」
 握手会などのイベントに参加するため、CDに付いている参加券を目当てに何枚も購入し、そのCDが中古レコードショップに大量に置かれていたのを見た覚えがある。津川は高校生のころだったから金銭的に余裕がなかった。
「その彼、末田君ね。優しいのはいいんだけど、積極的じゃないのよね。私も三十なんだから、子供じゃないし。スタジアム見てもつまんない」
 津川は曖昧に頷いた。最初のデートはそんなものだろう。お互いを知り合って、その後は二人の気持ち次第だ。
「そしたら、合コンで一緒だった子が教えてくれたのよ。末田君、アイドルオタクなんだって。それも筋金入りの、沼にハマったタイプ」
 歩夢によると、末田という彼は、女性アイドルグループ、ミンネ・クイーンズのファンで、中でも旗本英子というメンバーが推しだった。その旗本英子はすでに六年前、2017年にグループを卒業し、同時に芸能界からも完全に引退している。その後の消息は不明である。一般人になったので、芸能マスコミが追いかけることもなく、どこに住んでいるか、結婚したのかなど、現在の状況はまったく分からないということだった。
 津川は、ミンネ・クイーンズも旗本英子も初めて聞く名前だった。
「卒業したのは二十五歳のとき、今では三十をオーバーしてる。それがね、聞いてよ、旗本英子、似ているんだって、私に」
 歩夢はスマートフォンを津川に向けた。
「旗本英子の写真」
 津川は旗本英子の画像を見た。一枚目は何かのイベントの写真だろうか、マイクを持って微笑んでいる。次は横顔、鼻がスッと高くてきれいだ。続きを見ていくと、ライブで他のメンバーと歌っている場面もあった。花束を受け取っているシーンでは、泣いているのだが、その泣き顔も美人だった。彼女が二十五歳のときの写真だと仮定して、年齢の割に大人びているし、知性的な印象を受けた。
「どう、似てる? 」
 歩夢が訊ねた。津川は、旗本英子がしっかりメイクした写真は歩夢と似ていると思った。マスクをしていれば本人と間違えられる可能性もあるのではないか。
「大人びた雰囲気といい、真面目そうで、理知的な感じは歩夢さんと似ていますね」
「まあね」
 似ているかと訊ねられたから似ていると答えたまでだ。それなのに、歩夢はあまり嬉しそうではない。だから、女性は難しい。

「それで、末田君ったら、私のことを旗本英子の代わりにしようとしたんじゃないかと思ったわけ。イヤでしょう、そんなの。だから、乗り込んだのよ、彼のマンションに」
 そこで歩夢が見たのは、旗本英子のグッズに埋め尽くされた部屋だった。壁には旗本英子のポスターが何枚も張られ、天上からはメガホン、サイリウムが下がっていた。名前入りのタオル、親衛隊が着る法被もあった。本棚には写真集やアイドル雑誌、彼女が表紙になった女性ファッション誌がズラリと並んでいた。極めつけは旗本英子の等身大のパネルで、金のモールが付いたミニスカート姿だった。
 なるほど、引退後もファンでいるのは、死んだ妻のことが忘れられないという『死の都』のストーリーと酷似するところがある。
「まあ、それくらいはよくありそうな話だ」
 マスターも同感だ。
「だけど、叔父さん、物には程度があるでしょう。男の人が女性ファッション誌を買うのって信じられない。それだけじゃないのよ。旗本英子の写真に混じって、私とデートしたときのツーショットが飾ってあったのよ。思い出してもゾッとする」
 野々宮歩夢は両手で身体を抱えてみせた。
「赤レンガ倉庫でミンネ・クイーンズのイベントがあって、横浜スタジアムで始球式したんだって。デートといっても、私と聖地巡礼したかっただけなのよ。バカにしてるじゃない。アイドルなんかより、私のことはどうなのよって言ってやったわ」
「それはあまりいい気分ではないでしょうね。アイドルに関心があるのはいいとしても、歩夢さんを身代わりにするのは、普通ではないかもしれない。それで、彼の答えは? 」
「旗本英子は卒業して、もう会えないから・・・やっぱり、私が似ているんで、その代わりが欲しかったと白状した」
 歩夢は「もっと濃くして」と大きな声でお代わりを注文した。
 マスターがカクテルを作った。歩夢は一口飲んで、うぷっと噎せた。今度はかなりアルコール度数が高かったようだ。
「飲んでみて」
 歩夢は津川にカクテルグラスを差し向けた。歩夢が口を付けたグラスだ。津川はグラスを半回転させて飲んだ。確かに濃い。
「そういうわけでね、津川さんの観たオペラのストーリーを聞いて、現実にも同じような話があるって言いたかったの」
 グラスをまた自分の方に引き寄せた。
「彼とは、末田君とは、どうするつもりなんだ」
「叔父さん。オタクとは別れるしかないでしょう。当然よね」
 それがいいですよ、津川もそう思わずにはいられない。
「だけど、だけどさ。旗本英子に負けるなんてイヤ。だって、写真よ、ポスターよ、相手は。どうにもできないでしょう。私は現実に生きているんですって・・・」
「分った、歩夢ちゃん」
「分かってないって。アイドルと比べられて、そりゃあ、勝てないまでも、何か悔しい。というか、彼女は元アイドルだから今は一般人なんだよね」
 歩夢はアイドルに対抗意識剥き出しだ。というか、簡単には引き下がりたくないのが本音のようである。
 旗本英子は六年も前に引退したのだが、現在でもファンの男性をそこまで夢中にさせている。よほど魅力があったのだろう。しかも、二十五歳で芸能界から姿を消したとあっては、ファンの間で伝説として祭り上げられたのかもしれない。

 そろそろ帰ると言うので津川は野々宮歩夢を送っていくことにした。それほど酔ってはいないがタクシーの方が無難だろう。
 タクシーに乗り込むと歩夢は津川のスーツの肩口を掴み、「そうだ、忘れてたけど、もう一つ変なことがあるんです」と切り出した。
「会社の入ってるビルでね、最近、ていうか、四月になって全然知らない人に挨拶されるのよね。今日は十三日だっけ、そうよね。一週間くらい前からなんだけど、仕事終わりで帰ろうとしてロビーに降りたら、もうお帰りですか、とか言われた」
 そのビルは三十階ほどの高層ビルで、オフィスや事務所が幾つも入っており、飲食店、洋服やアクセサリーの店、カルチャー教室もあるということだ。大勢の人がいれば、他人の空似ということもあろう。マスクをしているのだから尚更である。五月の連休明けには新型コロナのさまざまな規制が解除になるが、それまではマスクは外せない。
「四月になってからというと、何か心当たりはありませんか」
「そうねえ、四月は新規採用が多いから、どこかのテナントに似た人が来たのかも」
 おそらくそれが真相だろう。ただ、歩夢は末田君の一件もあって、職場で人違いされるのは気持ちよくないようだ。
「私、会社の受付に座ってるの。ホントは秘書課なんだけど、新型コロナで来客が減ったでしょう。仕事がなくなってアルバイトは辞めちゃった。それで受付も兼ねているわけ」
「会社の顔ですね、歩夢さん」
 こんな美人が会社の受付にいれば、用はなくても顔を見に来るだけの人や、世間話をして帰ってしまう客もいるに違いない。
「津川さん、叔父さんの店にはよく来るの」
「月に一、二度くらいです」
「ねえ、また会えない? 」
 歩夢がストレートに誘ってきた。
 末田君のことはどうなったのだろう。旗本英子には負けたくないとか、まだ未練がありそうな様子だったが。
「いいですよ、『三船屋』なら、いつでも」
 美人の歩夢と再会を約束した。しかも、彼女からの誘いだ。津川は何故か動揺して、
「旗本英子って本名ですか」
 と訊ねた。
「知らない、本名じゃないの」
 歩夢は素っ気なく答えた。旗本英子のことを蒸し返したのは失敗だった。
「いえ、芸名にしては平凡だなと思って」
 慌ててフォローする。
「歩夢さんの名前の方がよっぽど芸能人らしいです」
「ふふ、私、これでも学生時代はミス・キャンパスに選ばれたことがあるのよ」
「美人ですから、それも当然でしょう」
 うまくリカバリーできた。
「でも、三位だったけどね。優勝した子は女子アナになって、先月、結婚したわ」
 同世代が結婚していく中で自分だけ取り残されそうで、焦っているのかもしれない。それが、合コンで巡り合った男性がアイドルオタクだったでは、ハズレくじを引いたような心境なのだろう。
 間もなく家の近くに到着した。歩夢はタクシーを降りる直前、小さな紙片を渡した。津川が開くと電話番号が書かれていた。

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