桜ふたたび 後編
部屋に駆け込んだ澪は、洗面所へ飛び込み顔が歪みそうな勢いで唇を擦った。

──何てひとだろう!

水で何度拭ってもキスの記憶は流せない。
水を止めたとたん、今度は胃の奥から吐き気が迫り上がってきて、澪は洗面台ボウルに顔を突っ込んだ。

吐き気はあっても、胃のなかが空で出てくるものはない。食欲がなく、それでも何とか栄養を採らなければと、無理やり飲み込んではみるけれど、食べた尻からリバースしてしまうのだから、どうしようもない。

涙目を上げたとたん立ち眩みを起こし、澪は両耳を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
急に走ったのがいけなかった。おなかの子が吃驚したのだ。

──ごめんね。

労るように腹をさすったとき、バッグの中のスマホが鳴った。

〈澪〉

相変わらず好きな響き。この声を聞くとホッとして、涙がこみ上げてくる。

〈元気か?〉

「はい、ジェイは?」

澪は洗面台に手をかけて、よろめきながら立ち上がった。冷汗がこめかみを伝って落ちた。

〈うん、元気だ〉

その声は、疲れていた。

「今、どちらですか?」

〈パリ〉

──パリは夜明けか。

と、計算したとき、

〈澪〉

と、苦しげな声がした。
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