桜ふたたび 後編
柏木は落ちつきなく、処置室の赤いランプを見上げては唸った。
マンションのコンシェルジュからの急報に、事情も飲み込めず駆けつけてきたが、事態は深刻だ。
ジェイの婚約発表に茫然自失したばかりなのに、澪がすでに身ごもっていたとは、ショックでこちらが気を失いそうだ。

──哀れな。

息の重さに柏木は大きく息を吐いた。
考えるに、ハイソサエティの世界では政略結婚など珍しくないし、澪とは事実上の夫婦としての関係を続けてゆくつもりなのかもしれない。いや、そうであって欲しいと願う。そうでなければ、澪が惨めすぎる。
第一、彼が澪を手放せるはずがない。AXを震撼させた彼の敗北と離脱未遂事件に、澪との別れが起因してることを、柏木は知っている。

「あなた」

妻の顔を見て、張りつめていたものが一気に緩んだ。

「あ……あ、すまないな」

四十歳を過ぎても可憐な女の横顔が、悲愴に曇っている。取るものもとりあえずという格好だが、入院準備を携えてくるところは、さすがだ。

妻の恭子と澪は、六本木の京料理店で会食したことがあった。恭子は京都の総合病院の娘で、澪がメニエール病を患ったとき義兄が主治医を務めたこともあって、ジェイが引き合わせたのだ。

おそらく澪の東京での世話役として、白羽の矢が立てられたのだろう。
ジェイの本性を知らない恭子はみごとに彼に﨟落され、加えて元が世話好きだから澪にすっかり同情したようだ。ちょうど祇園祭の頃で、鱧の葛落としやきゅうりの栽培法で盛り上がっていた。

柏木とすれば、夫婦してジェイに振り回されることが目に見えて、やんわりと妻に自制を促してもみたが、彼女は次のお誘いを心待ちにしていた。
まさかこんな形で呼び出されるとは、思いもしなかっただろうが。
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