桜ふたたび 後編

4、愛あるところ

ジェイは左手を額に押し当て黙り込んでいる。右手はソファーの肘掛けを爪を立てて握っているから、良質なカーフに疵がつかないか澪は気が気ではなかった。

マンションの前で、通せんぼするように横っ腹を見せたタクシーから、ジェイが怒りの形相で駆け寄ってきたとき、彼の勘の良さに驚きそして悔やんだ。

もっと早く出て行くべきだった。動くのも億劫でずるずると今日まで日延してしまったけれど、顔を合わせれば、彼が引き留めることはわかっていたことなのに。

「あの……、着替えないと、風邪を引きますよ?」

濡れた髪から雨粒が零れて、スーツの肩口の色を変えている。

「行くな」

呻くような声に驚いて、澪は上げかけた腰を降ろした。

「どうしたんですか?」

「今、行かせたら、二度と戻ってこない」

「……タオルを取ってくるだけですよ?」

再び腰を上げようとする澪の腕をがっしりと掴んで、

「澪が私から逃げようとするなら、24時間見張ってる」

子どもじみた威し文句に、澪は太息を吐いた。

「どうしてわたしがジェイから逃げるんですか?」

ジェイは厭わしそうな目を、さっき怒りにまかせてフロアに擲ったトローリーバッグに向けた。
枕崎にも京都にも、今さら戻れば事情を説明しなければならないし、ジェイに迷惑をかけるから、しばらくは都内のホテルに宿泊しようと、身の回りの物が詰まっている。

「わたしはもうジェイから逃げたりしません。でも、ここにはもう住めないから」

「なぜ?」

「なぜって、あなたのマンションに元婚約者が住んでいるなんて、変でしょう?」

ジェイはギョッとした顔をした。それでも掴んだ腕を決して離そうとしない。
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