桜ふたたび 後編
『そしてこちらは殿下のご友人、リチャード・ルネ』

アブドラの背後に侍立しているタキシードの青年に、クリスはまったく気づいていなかったのだろう。
アブドラが太陽ならば、彼は冥王星か。ダークブラウンの髪にモスグレイの瞳。優形の八頭身で、ウエーブした柔らかな前髪が目に掛かっている。西洋と東洋がバランス良く表に出た眉目秀麗なのに、憂鬱症なのかどこか病的な翳りがあった。

『お怪我の方は?』

『はい、もうこのとおりです。今はブロードウェイを目指して、若い子たちに混ざってレッスン漬けの毎日です。あの事故は新たなチャレンジへのいいきっかけになりました』

『それは楽しみだ。あなたが出演している作品は総て観賞しましたが、特に〈霧の街〉のマリアが素晴らしかった。若さの美しさは儚いものだが、あなたには美を創造する天賦の輝きがある』

クリス自身も、それがスクリーンデビュー作だと記憶していただろうか。場末のバレリーナ役でエキストラと言えるほど登場シーンも少なく、見逃してしまうほどタイトルロールの名前も小さかった。

そんな映画まで観ているとは、レオの情報どおり、アブドラは熱狂的なクリスファンだ。
公に知られていないのは、彼の立場上の問題だろう。国の動静に影響を及ぼす彼らは、幼い頃から物にも人にも執着心を禁じられる。特に敬虔なムスリムの王子が、異教徒の女優に熱い想いを抱いているのは外聞がよろしくない。

『ありがとうございます。初舞台には是非ご招待状を送らせてください』

『おお』とアブドラが大袈裟に感激したとき、ジェイの内ポケットで電話が鳴った。

『私たちはお姫様たちをお迎えに参ります。後ほど会場でお会いしましょう』

アブドラは邪魔者は早く出て行けとばかりに、腰の重いリチャードの尻を叩くふりをした。
発展家で冒険好きな王子は、これから始まるドラマのシナリオに、悪ふざけのように乗ってくる。

『Wish good spead!(成功を祈る)』

アブドラはジェイに向かって親指を立てた。振り返ったジェイは不敵な笑顔で応じた。

[حظا سعيدا وبارك الله فيك(幸運と神のご加護を)]

──役者は揃った。さあ、巧く踊ってくれよ。

しんしんと雪が降り積もる。
ジェイとリチャードを乗せた車は、ドラマのヒロインを迎えるために、美しいイルミネーションのシャンゼリゼ通りを走り始めた。
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