桜ふたたび 後編
『ところで、白熊は見ましたか?』

『予定どおり、シリウスがご機嫌をとっています』

ジェイの視線の先を確認したアブドラが、ふっと口元を歪めたように見えた。

──何?

ルナは目をこらした。
ふたりが見つめる先にいるのは禿げた鷲鼻の男。厚い胸板を反らした姿勢でウォッカをあおる姿は、恰もマフィアのドンだ。目の下が薄黒く弛んだ眠たそうな瞼の奥で、鋭い眼光がこちらに向かって発せられている。

その隣で、黒々とした髪を几帳面に整えた五十年配の東洋人が、しきりと耳打ちをしていた。銀縁の眼鏡フレームを中指で上げては、三白眼が生臭い笑いを浮かべている。

歌姫夫妻がアブドラたちの輪に加わり、彼らの廻りは一層華やかさを増した。
ニューヨーク・メトロポリタン・オペラでの公演活動が多いエリカは、ジェイやクリスとも親交が深い。

『いかがです? 彼』

ステージで拳を突き上げ歌い上げる青年を見つめながら、エリカが誇らしげに微笑んだ。

『さすがディーヴァが目をかけることはある。まだ若いが、どこか懐かしく切ない、佳い声をしている』

『ええ、日本人独特の繊細で情緒的な声です。テクニックはまだまだ未熟ですが、この声はヒデの唯一無二の武器になるでしょう。でも、残念ながら、彼を発掘したのはジェイです』

『ほう、あなたは目だけではなく耳もいいのか』

『そのうえ口も達者ですわ』

クリスのジョークに、アブドラは腹を抱えて笑った。

『次の公演予定は?』

『三月のMETでマダム・バタフライを』

弾む会話の輪をそっと離れ、ジェイが会場を抜け出すのを見て、ルナはその後を追った。
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