桜ふたたび 後編
「ここからはおまさんの役目や」

それまで口をへの字に結んでいた坂本が、目を上げ静かに頷いた。そして訥々と語り始める。

「志埜は……、高知の名料亭の一人娘でした。十二歳のときに母親が心臓病で急逝し、ほどなく父親が多額の借金を抱えて自ら命を絶ちました。それからは親戚をたらい回しにされ、ようやく十五歳のとき、遠縁の祇園の置屋の女将が、養女に迎入れてくれたのです。置屋に引き取られたと言うても、女将は志埜を芸妓にしようとは思ってはおらんかった。自分の代で廃業すると言うておられましたから」

低く落ち着いた声、飾り気のない誠実な語り口は、脳よりも腹の底に届くようだ。
今までモノクロ写真だった人物像が、徐々に色をつけはじめたような気がした。

「志埜はやさしく穏やかやったが、根ははちきんと呼ばれる男勝りの土佐の女です。芸妓になったんは女将への恩義のためだけやなく、おとなの事情で振り回された人生を、己の力で切り拓きたかったのだと言うておりました。行儀作法に厳しい家で育ち、幼い頃から芸事にも通じておりましたし、生来、器用でそれほどの覚悟もありましたから、じきに座敷でも売れっ子となりました」

ぼやけていた輪郭がはっきりとしてくる。拒むこともできず愛人となり、流されるまま子を身ごもり、男の言いなりに子どもを手放す、主体性のない弱いばかりの女だと想像していたが、事実は芯の通った才智のひとだったのだ。

「一本立ちしてほどなく、志埜は子を授かりました。一緒にはなれない相手でしたが、互いに覚悟の上だったようです。花街の子は花街が育てるものやから心配いらんと、女将の後押しもあって、志埜は華やかな表から身を引き、地方(じかた)として座敷を続けました。地方と言うのは、三味線や鼓でお囃子を演奏したり唄を担当する裏方です。ことに志埜の篠笛は格別でした」

昨日のことのように懐かしげに語っていた坂本の顔に、ふと影が落ちた。

「あれは、ぼんのお七夜を皆で祝った翌朝でした。妹分の鈴鶴から悲鳴のように助けを求められ駆けつけると、霧雨のなか、志埜は道に頽れて、忍び泣きながら、ぼんを抱いた男の背を拝むように見送っておりました。爪が食い込むほどきつくそれを握りしめて」

“ Pro futuro filius noster. Deus benedicat.”

「私たちの息子の未来のために。神のご加護を」

坂本はジェイの呟きを日本語でなぞった。

「志埜には、母親と同じ、心臓の病がありました。自分も短命であることを予感していたのでしょう」
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