桜ふたたび 後編
氷点下50℃近い気温に、樹木も凍結してピシッピシッと乾いた悲鳴を上げている。
外に出れば鼻毛は凍り、声さえも凍りつくのではないかと、誰もが無口になる。
雪でも降れば愉しみもあるが、山々に囲まれたこの平野には、滅多に雪は積もらない。毎日どんよりとした氷霧だけが町を漂うのだ。

霧までもが濁っているのは、山麓の石油プラントから立ち上る煙で、空気が汚染されているせいだ。
このプラントとダイヤモンド鉱山こそ、ミロシュビッチの現在の生命線だった。

彼は、ソ連邦解体の混乱に乗じて、モムソモール(共産党青年同盟)の立場を利用し、黒海沿岸の石油採掘の経営権を簒奪し、為替相場で利ざやを稼ぎ、国有企業の民営化を狙って強引なやり口でロシア有数のコンツェルンに成り上がった。

それを、〈連邦国の資源で得た金を投資して有した資産は、ロシアに税金を納めなければならない〉と、ロシア政府から言いがかりをつけられ、マスメディアは掌を返したように、脱税・横領・贈収賄・密輸・麻薬取引・武器横流し・殺人教唆と不正を書き立てた。

思えば二年前、サハ油田乗っ取りを機に、紛争の火種が燻る黒海の油田売却を画策したのが潮目の変わりだった。

検察の執拗な捜査をかわすため、この辺境の地へ居を移したミロシュビッチは、市長を暗殺し、その妻のヤクート族首領の娘を凌辱し娶り、まんまと市民というバリケードを手に入れた。

しかし、安泰に喜んでいられたのは束の間だった。夫の事故死に疑問を抱いた妻を、麻薬で廃人同然にしたばかりに、バリケードが崩壊した。

古き血の結束を彼は舐めていた。その核にある崇拝という心を彼は知らなかった。次の選挙を待たずに、彼は失脚するだろう。

何とかこの窮地を打破しなければ、アラン自身も危うい。ようやく不倶戴天の敵を再起不能に蹴落としたのに、こんな所でのたれ死にするわけにはいかない。海外に分散した隠し資産をロシア当局に横取りされないためにも、この極寒の気候条件以上にシェルターとなる手段を手に入れる必要はある。
しかし、この話はタイミングが良すぎはしないか?

どこからか風が漏れて、アランとミロシュビッチの間でつむじが巻いた。

〔モーリスだ。モーリスしかない〕

ミロシュビッチは譫言のように呟いた。
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