桜ふたたび 後編
〈富も地位も手に入れた。あなたに足りないものは国という権威です〉

エリカ・カイユに招かれたパーティーで、偶々居合わせた唐沢から耳打ちされた言葉。シェイク・アブドラが女神のようなクリスティーナ・ベッティを従え、人々の恭敬のなか威風堂々と現れたときだった。

〔砂漠のオアシスのプリンスですね〕

〔わしはツンドラの囚人か? 奴とわしとどこが違うと言うのだ。奴等の財産も元はといえば簒奪や搾取から得たものだ。奴は先祖から譲り受け、わしは自らの手で掴み取った〕

〔何も違いはありません。古来から他者を呑み込み奪うことで、人類は富と幸福を手にしてきた。しかし、あなたと彼には唯一にして最大の違いがあるのです〕

唐沢は眼鏡のブリッジを中指で上げた。

〔成る程、あなたは富も地位も手に入れた。しかし彼にあってあなたに足りないものがある。──国という権威です〕

ミロシュビッチはせせら笑った。ミロシュビッチが知事を務める市は、唐沢が住む米粒ほどの国よりも広大だ。

〔名ばかりの共和国など、植民地と同じです。自主権は認められてもクレムリンは存在する。あなたほどの方が、なぜ旧態依然とした国にしがみついているのです? サハの妻の息子に政権を譲って、チェチェンのように民族独立を訴えますか? それとも生命の危険を承知の上で、本気で大統領選に立候補するつもりですか? それよりなぜ、ベレゾフスキーやグシンスキーのように新天地を他に求めないのです?〕

ミロシュビッチは頭部を強打されたようだった。

〔国などそこらに転がっているものではない〕

力のない声に、唐沢はミーアキャットのように辺りを警戒して、声を潜めた。

〔モーリスをご存じですか?〕

〔良質なレアアースが見つかったという島だ〕

流石だと唐沢は大仰に感心した。

〔彼の地の開発援助のため、日本政府はすでにODAの無償資金投入を決定しています。我がミツトモを含めた日本企業も支援を申し出ています。ただ、若干の問題が生じておりまして──〕

唐沢のもったいぶった口回しに、ミロシュビッチは思わず身を乗り出した。
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