桜ふたたび 後編

2、霧のセーヌ

その頃、バハルにいるはずのジェイはパリにいた。
パリ20区のアパルトマンホテルに住宅兼オフィスを構え、黒いカラーコンタクトに眼鏡、茶髪に染めた髪にパーマをかけて、香港の貿易商というふれこみだ。

バハルでジェイだと信じられている男は、ニコラス・マクシミリオン、ニコだった。
金髪をストレートの黒髪に、口髭顎髭、サングラスを掛け、さらにリンを伴っていれば、誰も偽物とは疑わない。

元アメリカ空軍特殊部隊AFSOCで当該国への潜入を任務としていたニコにとって、対象者のコピーは朝飯前。長じて人の癖を無意識に真似る悪癖があって、ウィルから再三注意を受けている。
このすり替えを知っているのは、ジェイの側近の他にアブドラだけだった。

セーヌ川の水が温んだ頃、ジェイの姿はエリゼ宮近くの老舗ホテルにあった。
バハルからわざわざニコを呼び、空港で入れ替わるという荒技を披露してまで出席したのは、フィリップ・ド・デュバルの誕生祝いの席だった。

《そういうことで、よろしいわね?》

マティルダが業を煮やしたようにナプキンで口端を軽く押さえ、他人事に手をこまねいているジェイに念押しした。

《挙式は七月、新婦が洗礼を受けたイル・ド・フランスの教会で。新居はパリ、でしたね》

ジェイはアントレの子羊に最後のナイフを入れながら、これまで議論されてきた結婚への段取りを要点だけ復唱した。
すでに両家間で同意がなされていただろうから、まったくの出来レースに長々と付き合わされてしまった。

《わざわざバハルから戻ってきていただいて申し訳なかったが、なかなか話が進展せずに、周りもヤキモキしていてね》

《ご心配はごもっともです》

マティルダが重々しく頷く。

《でも、これで安心ですわ。すぐにウエディングドレスを作らせませんと。そう、新居の方も私にお任せください。お忙しいお手を煩わしはいたしませんわ》

マリアンヌは夢見心地に何もない空間を見上げている。はなからひとり心が浮きだって、会話に前のめりになっていた。
おそらくウエディングドレスは自分好みに発注済み、新居も自宅近くに目星をつけているのだろう。結婚しても娘離れしそうにない。
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