桜ふたたび 後編
変心したのではなく、今の関係で充分満足しているからだと説得すれば、案外あっさりと納得してくれそうな気もする。

そもそもジェイは、一般常識や世間の形式にこだわるひとではないし、なぜ急に結婚を言い出したのか不思議なくらいだ。
ローマの空港では、きっぱりと結婚はできないと言ったくせに。

玄関で物音がした。澪は慌ててキッチンを飛び出した。

「ジェイ!」

駆け寄る澪に、ジェイは嬉しそうに両手を広げる。

「靴、靴」

澪はスリッパを取りだして、広げた腕の始末に困っているジェイの足元に揃えた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

抱きしめられキスされると、澪の気鬱はたちまち晴れてしまう。

「どう? 人並みの生活ができるようになっただろう?」

澪の肩を抱いてジェイは自信満々に言う。

ニッチに飾られた青いヴェネチアン硝子のオブジェに目をやって、これが〝人並み〞というのかしら? と、澪は心の中で答えた。

今夜も東京は熱帯夜。車を降りてからのわずかな間でも、外気は暑かっただろう。
ジェイはエアコンの風を愉しむように、ネクタイを外し、腕をソファーの背もたれの上に広げて、黄金時代の王様みたいに寛いでいる。

「明日は早く帰れるから、久しぶりに澪の手料理が食べたい」

京都で朝食を作ったとき、彼はいたく感激してくれた。
会食ばかりで健全とは言えない食生活だから、有り合わせで作った一汁三菜の粗食が珍しかったのだと思う。
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