桜ふたたび 後編
娘は、打たれた頬を押さえることもせず、弾みで横を向いた顔を無言で戻した。
反抗的なようにも、投げやりなようにもとれる態度に、打った者のショックの方が大きかった。
父は痺れた手をもう一方の手で抑え、

《今の言葉は聞かなかったことにする。お前も二度と口にするのではない》

父は娘に背を向けた。
娘は妙に冷め切った表情で口の隅を歪め、信仰を忘れた父親の背に投げるように言った。

《無理ですわ、お父様。あの方は、すべてご存じなのです》

血の気が失せた。取り返しのつかない過ちを、ジェイは見て見ぬ振りをしているというのか。

──一体、何を企んでいるのだ。

心当たりは、自国を中心とする通信キャリアFMTだ。次世代データ通信構想に後れをとり、ロイズの敵対的買収に脅かされていた。
ドイツの自動車メーカーがホワイトナイトとして名乗りを上げているが、裏にSAMがいることは調べが済んでいる。

SAMはムスリムの王子が個人で持つ投資会社だ。野蛮で人権を無視する異教徒に与することは、敬虔なカソリックであり貴族の血が許さない。
そこで、国際的ITソーサ・PMSに影響力を持つジェイを利用しようとしたのだが、彼はバハマでの仕事を理由になかなか重い腰を上げようとしなかったのだ。

──この件をネタに条件を釣り上げてくるつもりか。

下手をすれば呑み込まれる。魔術師などと世間に持て囃されてもしょせんは若造と、みくびり過ぎた。
氷の瞳の奥に隠された底知れぬ不気味さに、デュバル家存亡の危機さえ感じて胴震いした。

娘は疲れたように長息すると、長椅子に腰を降ろし、短く整えた爪先を見つめながら、低く繰り返した。

《あの方はすべて知っていて、私を責めることをなさらなかった。ただ、赦しならあなたの良心と生まれてくる子に請いなさいと》

娘は涙を溜めた目を上げて、父親に向けた。

《リチャードは、すべてを捨てて私と子供のために生涯尽くすと誓ってくださいました。私たちは心から愛しあっています。それでもこれから先、デュバル家のために、神を偽り愛のない人生を送れと仰いますか?》

すみれ色の瞳からつっと涙が落ちた。
父は虚ろに遠い目をしたまま、無言で踵を返した。

それから五日後、軟禁されていたサーラの姿は、再び両親の前から消えた。
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