桜ふたたび 後編

Ⅺ モンマルトルの鴉

1、モンマルトルの鴉

ジェイは、モンマルトルの小さなカフェで、その男が現れるのを待った。

以前は薬屋だった店は、正面が硝子張りで外を行く人の流れがよく見える。通りは北行きの狭い一方通行で、車は少ない。
店内の薬棚には本が並べられ、二人掛けのテーブル席が通路を挟んで三席ずつ。
珈琲の香りに包まれながら静かに本をめくるパリジェンヌが二人と、ノートパソコンで仕事をするパリジャンが一人、老夫婦がサンドイッチでランチ中だ。女房が、食べた尻から零す亭主の口元を拭い、豆豆しく世話を焼いている。みな常連のようで、観光客の姿はない。

情報によれば彼は、毎日13時にこの店にやって来て、ランチを取りながら三時間ほど読書に耽るらしい。

奥の書棚の横が彼の指定席だ。そこだけ籐のパーティションで仕切られていて、人の出入りは見張れるが、周りからは死角になる。
万一の場合には、脇の通用口から抜けられるようになっているとは、用心深い彼らしい。

午後１時５分、アランはふらりと姿を見せた。
いくらか頬が痩けて、無精ひげを伸ばしている。眼鏡をかけているのは変装ではなく、本当に視力が悪いらしい。

いつものテーブルに先客を見つけ、アランは厚い下唇を突き出して驚いて見せた。

《奇妙なところでお会いしましたね。ムッシュ・アルフレックス。──よろしいですか？》

ジェイはどうぞと頷くと、素っ気なく言った。

《元気そうだな》

アランは椅子にやや体を斜めに腰掛け、老夫婦のテーブル脇から顔を向ける店員に軽く頷いた。彼らの間ではそれだけでオーダーが通るようだ。
通路側に脚を向けるのは、いつでも逃げ出せる体勢を無意識に取ったのだろう。

アランはジェイに乾いた横顔を見せながら、

《ロイズを解雇されてからは、このとおり読書三昧です。あなたは相変わらず忙しそうだ。待ち合わせですか？》

《いや、捜し物をしている》

ジェイはダブルのエスプレッソを口元に運んだ。アランの唇が、瞬きをするほど短い間だったが勝利の笑みを浮かべたのを、見逃さなかった。