桜ふたたび 後編
《あれはロンドンのリージェンツ・パークでした。万引きがばれて袋だたきに遭っていたとき、大人たちが遠巻きに穢らわしそうに見ているなかで、ひとりの少年が助けてくれましてね。不思議な色の瞳をした、私よりはるかに小さな子どもが、高級な服を着て、上等な革靴を履いて、ボディーガードたちに守られ、苦労をしらないきれいな手で、まるで野良猫に餌を与えるように大金を施して彼らを追い払った。屈辱でした》

アランは、キャラフド(お冷や)で指先を濡らすと、テーブルの上にティフィナグ文字(アマーズィーグの文字)を書きながら、自虐的な表情を浮かべた。

《父は酒に酔うと言いました。せっかく勝ち取った民衆のための政権も、しょせん富を持つ者が権力を握り、そして金に腐敗すると。父は要領が悪かった。それなら私は、富のある者を利用して富を得て、この少年をいつか跪かせてみせる。私は探しました。私の能力を存分に発揮できる人物を。そしてようやく見つけた。誰よりも貪欲で浅ましい、私意のためなら友も家族も国も平然と裏切る男を》

野心に燃える少年は十七歳で大西洋を渡り、北アメリカ大陸を転々とする。その度、顔を変え名前を変え過去を捨てた。

そして十数年前、ラスベガスで知り合った資産家のフランス人と結婚し、アラン・ヴィエラと名乗り、妻の縁故でミロシュビッチとの対面を果たした。

《それなのに、あなたはいつも私の邪魔をする》

テーブルに綴られたジェイのフルネームが、同じ指先によって斜線に裂かれた。

《生まれながらにして全てを与えられた幸運の人間にはわからないでしょうね。どん底から這い上がり昇りつめ、ようやく手中にしたものを、一瞬にして奪われる空しさが》

アランの唇に、黒魔術士のような病的な笑みが浮かんだ。嫉妬と憎悪に瞳は赤く染まっていた。

《ですからね、あなたにも教えてさしあげようと思いまして。しかしあなたは悪運まで強い。神に愛でられ悪魔からも愛されるなど、大したお方だ。お捜しの小鳥にもご加護があればよろしいですね》

ジェイはエスプレッソを飲み干して然りげに言った。

《ジョージアの迷い犬を預かっているんだ。メルとは親友らしい》

アランの瞳にさっと動揺が走った。いきなり席を立つジェイを、アランの顔が追った。

《己の歴史などまた新たに作ればいい、君がそれまでしてきたように。過去にしがみついた時点で、君は負けだ》

そして射るような冷たい視線を向けて、

《覚えておくといい。愛する人間に代わりはない。君も盗まれないように気をつけるんだな》

太刀風のようにジェイが消えたドアを、アランは唇の端をひくつかせ、いつまでも睨み続けていた。
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