桜ふたたび 後編

2、運命の女神

ウィルたちがメルヴィン・マイヤーの所在をリールと突き止めて、十日が過ぎた。

メルの母親の名はエマ。
エマはオランダ出身の三十五歳。ベルギーでフランス人と結婚したが、七年前に夫が死亡。夫の親族を頼りリールに移り住み、近所の会社で時短労働しながら一人息子を育てている。と言う経歴はすべて偽装、誰かのなりすましだろう。
常にサングラスとウィッグで隠しているが、赤毛の女であることは間違いない。

送られてきた画像を確認して、ジェイは己の不甲斐なさに歯噛みした。
エルモの秘書だ。
AXビルで一度対面したのに、なぜ気づかなかったのか。まさか虎穴に堂々と乗り込み、虎子を得ていたとは、迂闊だった。

ジェイは、ミーティングテーブルを囲む仲間たちを見廻した。

AXという超一流企業を辞め、ジェイを信じて新会社の旗揚げに協力してきたメンバーだ。
襲撃事件の際にも見限ることなく、人が羨む高年収も、エリートビジネスマンという世間の評価も、将来のポストも、すべて抛ってきた。
あるのは己の仕事に対するプライドと、熱い忠誠心。
それを、ジェイは今、踏みにじっている。

レオが調査状況を冷静に報告し、ニコが分析結果に熱弁を揮う。ウィルがシニカルに反論し、リンがクールに場を進行する。
何も変わらない日常の風景を、ジェイは寂しさと愛しさで見守っていた。

ジェイが目を伏せたとき、猛烈な勢いで扉が開いた。
と同時に、イボイノシシのような男が猛然と駆け込んで来た。

血色の悪い浮腫んだ顔、吊り上がった目、パーツの配置が中央に寄っている。大学教授のような口調でいかにもインテリぶっているが、ウィルは〈虚言癖の佞臣〉と揶揄していた。

ウィルの懸念はわかるが、一度金に転んだ人間は、金に取り憑かれる。ジェイからすればいっそ清々しい。
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