桜ふたたび 後編
あの日──、
ジェイが乗ったプライベートジェットが、エンジントラブルで不時着したとの報せを受け、澪は貨物船からヘリで飛行場へ、待機していたプライベートジェットに乗り換えてリバプールへ向かった、はずだった。

冷たい雨に煙る夜の飛行場に降り立ったとき、ようやく澪は不審を覚えた。
イングランドはシェンゲン圏ではない。パスポートコントロールも受けずに入国できないはずだ。
それに、この香りには覚えがある。

──泉岳寺で襲われたときの。

猜疑の目を向けたとき、女はすっと首を伸ばし、残忍な表情で嗤った。
すべては遅過ぎた。J&Aの社員だという女の身元も確認せず、動転して異様さに気がつかなかった。ジェイから口を酸っぱくして注意されていたのに。

逃げようと身を翻す間もなく捕まり、メスで脅された。
じわじわと顎の下に冷たい切っ先が這った。
澪は口を閉じたまま、目を剥いて鼻の奥で悲鳴を上げた。
たらりと生暖かいものが首筋を伝った。

恐怖で身動きできないままに薬を打たれ、目が覚めたときには、ここに閉じこめられていた。

女はキアラと名乗った。

『あなたにはしばらくここでおとなしくしてもらうわ。安心して、まだ殺したりしないから』

拘束具でベッドに縛り付けられた体を見て、澪はぞっと寒気だった。
このひとは本気だ。グリーンアイの奥には、生命を虚しく思う狂気がある。

『これはあの男が今まで多くの人を苦しめてきたことの報いなのよ。結婚式に花嫁を盗まれて、きれいな顔に傷をつけられて、今頃どんな吠え面しているかと思うと、ゾクゾクするわ。でも最愛の者を失う苦しみはこんなものじゃない。もっともっと苦しめて、地獄の底をのた打ち回させてやる』

呪詛のように言うキアラの顔は、苦しげに歪んでいた。
強い怨讐が、美しいブロンドを赤く染めたのだろうかと思えるほど、ジェイがキアラの心に負わせた傷は深い。
何がふたりの間にあったのか、その事情を知ったところで、澪には何もできない。

『そうねぇ、目の前であなたを殺してしまうなんてどうかしら? あの男が私にしたように。かわいそうな子うさぎちゃん、恨むなら人殺しのあの男を恨みななさい』

『人殺し……?』

『そう、あいつは目的のためならどんな手段も厭わない。自分では決して手を汚さず、人の心を操って、平気で裏切る。その道を選んだ自身の罪だとでも言いたげに』
< 255 / 271 >

この作品をシェア

pagetop