桜ふたたび 後編
雲一つない天頂近く、丸く小さな月が昇っている。堤防で寄り添う恋人たちのシルエットが、青い月明かりに濡れていた。
風は頬を微かに撫でるほど緩やかで、潮騒だけが静かにリズムを刻んでいる。ひとり波打ち際を歩く浴衣姿が、水面を弾く銀波金波に隈取られて、そこはかとなく寂しく見えた。

港で「どーん」と音が轟いた。顔を上げた澪の瞳に、大輪の花火が散った。
今夜は、枕崎港祭クライマックスの花火大会だ。真壁の家族は港へ向かったけれど、澪はなずなの再三の誘いを断った。澪が一緒なら伯父は出掛けないとわかっていたから。

澪は夜空を見上げてため息をついた。

なんとか伯父に東京で暮らす許しを得る。それだけでも難題なのに、その後には、ジェイに結婚を断ると言う超最難関が待ち受けている。

澪にとってジェイの人生は重すぎる。
イタリアで嫌と言うほど思い知らされた住む世界の違い。家の格式、彼の社会的立場を考えれば、平凡な庶民ではうまくいかないことは火を見るよりも明らかだ。その平凡にすら届かない澪では、彼自身が恥をかくことになるだろう。それを、何を考えているのかジェイの気の迷いが過ぎすぎる。

なにより、もっと重大な障害が澪にはある。

夫婦は二人三脚に似ている。ペアのバランスが悪ければ、どこかに負担がかかり、一方の躓きによって他方にも怪我を負わせてしまう。スタート当初は互いに思い遣り庇い合い乗り切れても、やがて積もり重なったずれに、修復できない歪みが生じる。

たとえハンデがあっても愛情があれば──、などと澪は考えてはいない。愛情も疲弊するからだ。エレガントがキザに、博識が知ったかぶりに代わるように、熱が冷めれば現実が鼻につく。

だけど補う術はある。子どもという紐帯が、解けかけた絆を繕い強くしてくれるだろう。

だからこそ、彼が結婚生活に子どもを望んでいると知ってしまった以上、叶えてあげられない澪に、彼の妻となる資格はない。

──ジェイを傷つけずに断る方法はないかしら?

猛烈に怒るか、悲しげな目をするか、どうしたって彼の心を踏みにじることは避けられない。

何よりも澪が怖れているのは、事訳を問い質されることだ。
彼はカソリックだ。きっと軽蔑する。どんなことをしても彼にだけは秘密にしたい。
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