桜ふたたび 後編
『メルはどうしたの!』

キアラの瞳が一瞬母親に戻った。

『一晩くらい大丈夫よ』

弱々しく言う。その逡巡に乗じて、シアーシャは彼女の前に回り込み両腕をとった。

『小さな子をひとりにさせるなんて、どうかしている。何かあったらどうするの? 早く帰ってあげて、ね?』

シアーシャは声を落として言った。

『あとのことはわたしに任せて。いつものように元の場所に返しておくから』

潜伏先として利用する者、事情があって幽閉されている者、キアラが連れてきた入院患者を後腐れなく退院させるのも、看護師長の役目だ。

いや、妹だから。姉の罪をわずかでも軽くしたい。
特に今回のキアラは、復讐心に取り憑かれて一線を超えてしまいかねない。

『彼女は生きて返さない。やっと望みが叶うんだから』

暗い憎しみに満ちた目に、シアーシャは怯んだ。

『彼女に罪はないでしょう?』

『あいつが私から奪ったものを奪うだけ』

『パパが自殺したのは、彼のせいではないわ』

『あいつがホテルを乗っ取って、パパを追いつめた』

違う、とシアーシャは声に出せない代わりに頭を振った。

父が、北アイルランドに五代続く優雅なビクトリア朝の銀行を、ホテルとして建て替えたのは三十年前。街の基幹産業だった造船や繊維業業が廃れ、これからは観光都市として発展することを見据えてのことだ。

先見の明はあった。けれど、真面目で几帳面で他人にも厳しい銀行家の一族には、ホテル経営の適性はなかった。
亡くなった母が病弱だったこともあって、姉は医師となり、妹は看護師となり、跡取りもなかったのに、父はアイリッシュの誇りに拘って意地を張り過ぎたのだ。

『あのときAXの買収がなければ、もっと大勢の従業員が犠牲になっていたわ』

『そうね。イングランドのプロテスタントに奪われる前に買収に応じるように、リーアムがパパを説得した。あいつが彼を唆さなければ、彼は殺されなかった』

その名前に、シアーシャは嫌なものを見たように眉を顰め、反論しようとして、やるかたない息を吐いた。唇を開けば、姉を追いこむことになる。

──それは事実を歪曲した逆恨みだ。
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