桜ふたたび 後編
十年前のセント・ジョンズ・イヴ、窓硝子越しの広場は薬草や花で飾られ、夏至祭の焚き火が赤々と燃えていた。

健康と良縁を願い焚き火を囲んで楽しげに踊る町の人々の姿に頬を緩め、予定時刻ちょうどに父の執務室へお茶を運んだシアーシャは、いきなりの怒声にドアの前で身動きが取れなくなった。

ビクトリアン・ゴシックの名残が見られる重厚な室内。フォレストグリーンの壁には、ベルファストの風景画や写真が飾られている。町を愛し、町の発展のために尽力する父らしい。

敬虔なカソリックで謹厳実直な彼だけど、窓際の机に置かれた姉妹の写真を見るときだけは相好を崩すのだと、半年前に亡くなった秘書から聞いた。報われないと知りながら、堅物を最期まで愛してくれた女性だ。

そんな、常に清浄であったはずの部屋に、不穏な空気が澱んでいた。

中央のテーブルを挟んで、六名の顔がある。

興奮して立ち上がりテーブルから身を乗り出したリーアム、恐怖と羞恥に項垂れそれでもなお美しい姉、ただ唖然と彼を見上げる父の窶れた横顔。

対面には、静かにリーアムを見上げるシャタンの髪の男、足を組んだ大柄な男は書類を前にニヤリと口端を上げたように見えた。どちらも姉より少し上、三十歳過ぎだろうか。

二人の間に座る黒髪の青年は、美しい姿勢のまま彫刻のように表情も動かさない。

『私の情報提供のおかげで、あなたたちの優位に運んだのに、何の見返りもないなんて馬鹿げてる!』

返ってきたのは天からの下知のように冷たく響く声。

『サー・オサリバンの主義思想は、この契約に関係ない』

リーアムは反発するように口を開いたけれど、声が喉に詰まったように静止してしまった。
冷然と向けられた瞳に、明らかに威圧されていた。

『リーアム、いや、ラリー』

青年の隣でペンを弄んでいた栗毛の男が、人を食ったような馬顔を上げた。

『そちらのご令嬢と婚約中らしいが、アトランタの妻との話はついたのかい?』

『な、何を言うんだ!』

荒げた声の大きさが、誰の目にも狼狽をごまかすためにしか映らない。
馬面はゆっくりとやや前屈みに両手を組んで、

『君の本名はラリー・オーサー、英国系のカナダ人で父親はプロテスタントの牧師。学生時代の成績はなかなかよかったようだな。ところが、勤務していたフィンテック会社が倒産、ついてない。それから八年、無職の君がどうやって贅沢な暮らしをしていたのか疑問だが、なぜか一年前に、妻と八歳の息子を残して失踪。我々との交渉を望むのなら、先に解決するべきことがあるのではないか?』
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