桜ふたたび 後編
屋上でヘリコプターの音が止んだ。
特別階のナースステーションで一人待機を命じられたアイラは、つまらなそうに日誌を記入しながら、あーあとため息をついた。

ヘリコプターまで飛ばすなんて、大変な騒ぎになってしまった。
けれど、偶々鍵を開けに行っただけなのに、まるで自分の失敗のように言われるのは腑に落ちない。

確かにちょっと気を許していたところはあるけれど、先輩たちだって似顔絵を描いてもらったり折り紙を教えてもらったりと、結構気安く接していた。
大人しく穏やかで優しいし、こんな所に閉じ込められて、みんな同情していたのだ。

しかし、まあ、ヒグマ出没の話で嚇かしたときには震え上がっていたのに、まさか大胆にも脱走するなんて、ヤマトナデシコは恐ろしい。
外は寒いし暗いし、今ごろ後悔してるのではないかな。

そのとき、廊下に微かな靴音を聞いて、アイラは椅子から腰を浮かせてカウンターに上体を乗り出した。

普段ならとっくに消灯されている廊下に、近づいてくる黒髪の男。
誰だろう? こんな時間に見舞い客?

アイラは大きなヒソヒソ声で言った。

〔このフロアは立ち入り禁止ですよ。それに面会時間は過ぎていますから、明日にしてもらえます?〕

職員専用エレベータでしかここに出入りできないのに、何で入って来ちゃったんだろうと、腹立たし気に考えて、

──あれ? 今この人、屋上の階段から降りて来なかった?

突然、背後から口を塞がれ腰の辺りに硬い棒のようなものが突きつけられた。
悲鳴を上げかけたアイラの耳元で、ビブラートのかかった声がした。

『お静かに』

いつの間にナースステーションに侵入したのか、足音も気配もしなかった。

固まったアイラに、黒髪の男は氷のような目で言った。

『日本人の女が入院しているだろう?』

アイラは涙目になりながら、うんうんうんと首を強く縦に振った。

『彼女の部屋に案内してもらおうか』

口を塞がれたままアイラが何かを訴えているのを感じたのか、男の手が口からすっと離れた。

アイラは必死に、

『います、いました!』

『いました?』

うんうんとアイラは再び首を振った。

『逃げちゃったんです。それで今みんなで探しているところで──』

説明の途中で男の視線がアイラの背後へ移った。
恐る恐る振り向くと、シャタンの髪の男がスマホを耳にしていた。

『どうだ?』

と、黒髪の男は聞いた。

『ミオを追ったようです』

黒髪の男はギリっと音がするほど歯を食いしばり、身を翻すとあっという間に階段に消えて行った。
< 266 / 271 >

この作品をシェア

pagetop