桜ふたたび 後編
「ごめんなさい。不愉快な思いをさせて……」

公団住宅の建物を後にして、ようやく澪は消え入りそうな声を発した。肩を落とし項垂れ、足の運びも引きずるように重い。

団地内には緑が多く、ジェイは木陰を選んで歩いた。
木々の向こうに遊び場の遊具が見える。子どもたちのはしゃぎ声が空に響いていた。

「作戦を間違えたかなぁ」

冗談めかして言ってはみたが、澪の心が和まないことはわかっていた。
真壁のときには事前に澪から情報を聞き出していたが、今回は見くびっていたとしか言いようがない。

母親は、娘を所有物化し精神的に支配しようとしていた。
彼女が手を上げたときの澪の反応を見ると、幼い頃から暴力で服従させられていたのかもしれない。澪が大きな音や声に過剰反応するのも、ここに要因があったのだと腑に落ちる。

父親は娘にまったく関心を示さなかった。いや、あれは近親憎悪なのか。意識的に澪に対して心を閉ざしているように見えた。

何よりの誤算は、澪だ。人形のように感覚も感情も完全に遮断してしまって、枕崎の家で見せた顔とは正反対だった。

澪は、出生の経緯から生まれてきたことに罪悪感を持っていた。加えて、長年にわたる母親からの人格否定、能力否定、そして父親の無関心が、澪自身の存在否定に拍車を掛けたのだ。
ある意味、虐待と捉えてもいい。

二組の両親に育てられたことが、澪に厄介な二面性を具えさせたのか。
誠実で寛容な彼女の人格形成のコアを、自分の存在を否定されることへの恐怖感が厚い殻となって臆病にさせている。
だから〝愛される〞ことより〝疎まれない〞ことを、潜在意識のなかで常に選択する。

彼女の自己否定癖や自己評価の低さが、実の親子関係からもたらされた心的障害ならば、マダム・ネリィもかなり手こずるかもしれない。
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