桜ふたたび 後編
『AXのため──じゃない。ジェイが尽くしてきたのはマティーのためだ。当前だろう?』

『やめて』

声が震えた。

エルモは歯軋りするように、

『奴はマティーの息子じゃない。フェデーがほかの女に生ませた卑しい子どもだ。それをマティーの温情でアルフレックスの実子として育ててやったんだ』

『やめてってば!』

ルナは魔王の歌に怯える子どものように、両手で耳を塞いで叫んだ。

幼い頃、ジェイが突然髪を染めてしまったことがあった。ルナはむくれてしばらく口を聞かなかった。兄のきれいな黒髪がお気に入りだったから。
少し物事がわかるようになって、髪も瞳の色も両親の遺伝子を継ぐと知ったけれど、ジェノヴァにある肖像画の祖父はアースアイだし、祖母はオフブラックに近い深いブリュネットだから、きっと隔世遺伝したのだと思った。
何よりも、美しく優秀な兄を自慢に思う気持ちで、疑問など覚えることもなかった。

でも本当は、いつの頃からか、ジェイがマティーの実子ではないことを、ルナは感じていた。
母は三人の子どもたちに対して分け隔てなく母親らしい愛情を示さないひとだったから、彼女の接し方に違和感を抱いたことはないし、誰かに耳打ちされた訳でもない。ただ漠然と感じていた。

ジェイは、知っていたのだろうか。知っていたから、エルモの姑息な嫌がらせに仕返しもせず、マティーの理不尽にも従っていたのか。

『 There is safety in silence. (雉も鳴かねば撃たれまい)。よりによって、あの女そっくりのジャップとはな』

エルモが憎々しげに吐き捨てるのを訊いて、ルナは棒立ちになった。

──日本人。

自分が伊織に惹かれたのも、ジェイが澪に惹かれるのも、父の遺伝だったのかと、根拠もないことを考えるほど、ルナは狼狽していた。

エルモは意味深に言った。

『ルナ、ジェイに肩入れするのはよせ。君の大切な組織がせっかくのスポンサーを失うことになるぞ。それに、仲間たちもいつ不幸に見舞われるかわからない。君の恋人のように』

『何ですって?』

烈しい憎悪の視線を向けたルナは、勝ち誇った薄笑いを目にして、愕然とした。

マティーは恐ろしくプライドが高い。一度受けた屈辱は屍になるまで忘れない。
彼女なら、MSFに圧力をかけ、伊織を危険地域に転属させることくらい朝飯前だっただろう。昨年のナターレにジェノヴァに会いに来たのは、伊織の生死不明を知っていたからだ。

──完敗だわ、ジェイ。

ルナの脳裏に、容赦なく谷底に突き落とされるふたりの姿が浮かんだ。
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