THE SUICIDE BRIDE 自殺因果の花嫁
最高のライブを終えた。
幕が閉じられ、ステージ裏で息を上がったバンドメンバーたちは満足そうな顔を浮かべていた。カーテンを突き抜けてくる、観客たちの黄色い声援が耳に響く。ステージを片付けて、息が上がったまま客席へ向かった。
ファンたちに挨拶しながら物販でCDを売っていると、一人の女性がCDを買った後に話しかけてきた。
長い金髪をなびかせ、黒いドレスが胸元を強調した、その姿は一見、白人系の外国人にも見える。年齢はおそらく二十五、六歳前後だろう。
しかし、その外見以上に印象的だったのは彼女の持つ、どこか世の中に対して大きな期待を抱いていないような態度だ。その姿勢は、まるで世間を斜めから眺めているかのようで、彼女自身が「綺麗な薔薇には棘がある」という言葉を体現しているかのように思えた。
私は凛と佇んでる彼女に、ライブを見てくれた御礼を言い、「どこから来たのですか?」と訪ねた。
彼女は「神奈川から来ました」と答え、それ以上は何も言わなかった。私は「CDを買ってくれてありがとう。良かったら後で話しましょう」と言ってから、楽屋に戻った。
その後、私はメイクを落とした。三十二歳の男のすっぴんは、アーティストとしては、老けたオジさん感が強くなり過ぎる。そこで、目元に塗りたくったパンダのような黒いマスカラと、黒い唇のメイクだけを落とし、ファンデーションは適度に残すことにした。
これで、ステージに立っていた ヴィジュアル系ミュージシャン・ヤヨイ の素顔が出来た。ショートボブヘアは、フルメイクのときは悪魔的に見えるが、すっぴん風の男の顔には、不気味に写り個性が強すぎる。
真っ当な社会人らしさを示すために横髪を耳にかけて、ツーブロック風にすることにした。
∎
イベントは無事終了し、そのままライブハウスで朝まで打ち上げを行うことになった。多くのお客さんが帰った中、ライブハウスの隅で煙草を吸っている金髪の女性が目に留まった。
彼女はさっきCDを買ってくれた子だったかな、と思いながら彼女に近づいた。万が一人違いだったら困るので、「この後ここで打ち上げするんだけど、一緒に飲まない?」と声を掛けた。彼女は「はい」と答え、私の後をついてきた。
∎
ライブハウスのホールに、次々と折りたたみ式のテーブルと机が組み立てられ並べられる。BAR営業が始まり、80年代の古いビンテージロックが店内に流れ始めた。
私は椅子を引いて、後ろについてきた彼女に座るように促した。彼女は軽く会釈して座り、私も隣の席に座った。
直ぐに今日のイベントを主催した、ライブハウスのスタッフでもあり先輩ミュージシャンのマリーが、酒を持って私の真正面の向かいの席に座った。
彼は綺麗な茶髪のロン毛で如何にも煌びやかな夜の世界が似合う紳士的な優男だ。小綺麗な細身のスーツを着ていて、長身で華やかな香りを漂わせた、男が見ても美しい男性だ。
マリーは私と彼女にテキーラのショットを手渡し優しい笑顔で「取り敢えず乾杯しよう」と微笑んだ。
僕もマリーから手渡された同じ酒を、喉に流し込むと、食道からお腹にかけて焼ける様な感覚がした。
まるで自分がドラゴンになって炎を口から噴き出した気分だ。
直ぐに脳がぶっ飛んでクラクラした。世界が歪んで虹がかかった様に美しい空間にいる様な感じがした。
マリーは手招きして、まだ席についていない女性二人を呼んだ。間もなく、マリーの両サイドに女性二人が座り、合わせて五人が同じテーブルを囲み、酒を飲むことになった。
他の席でもいくつかのグループが形成され、皆それぞれに楽しそうに酒を飲んでいた。
すぐ隣からタバコの匂いが漂ってきて、彼女が無造作にテーブルに置いた、真っ黒なタバコの箱には白いドクロの絵と「DEATH」の文字がプリントされていた。
その見るからに毒々しいタバコを吸っている彼女の姿は、何とも危険な雰囲気を醸し出していて、まるで黒魔術を使う金髪の魔女のように見えた。
私は彼女に名前を訪ねた。
彼女は白く甘い煙を吐いて「リサと言います」と答えた。
そして、おもむろに彼女は組んでた足を解き左右反対に組み直した。
その時に、左の太ももに赤い何かしらの模様が描かれたTattooが一瞬見えたが、私は直ぐに眼を逸らしたので、何が描かれているのかは分からなかった。
ただ、彼女が普通じゃない女性だって事は感じた。
リサは酒の入ったグラスを小指で掻き回した。
氷がカラカラと音をたてていた。
酒の付いた小指に吸い付き、チュッパと音を鳴らし、優しくグラスにKissするかの様に、一口酒を飲んだ。
酒を飲むだけで人の視線を釘付けにする一連の仕草が、洗練された大人の女性の色香を醸し出してて、きっと夜の世界で生きてきた女性なんだろうなと感じた。
マリーも同じ事を思った様で「仕事は何やってんの? 風、それともキャバ?」と、無邪気な笑顔でリサに尋ねた。
マリーの屈託ない笑顔の問い掛けに彼女は困りながらも笑顔で「キャバクラです」と答えてた。
私は職業の事とか聞いちゃいけない様な気がしていたのに、一瞬で人の垣根を超えて仲良くなるマリーの人間力に驚いた。
だからマリーは女性を引きつけるんだろうなと感じて、素直に感銘を受けた。
マリーとリサが楽しそうに話してるのを見て、こんな風に自分も人と気軽に話す事が出来る人間になりたいと感じた。
会話が進み心が打ち解けたのか、酒を飲みながらマリーが隣に座ってる左右二人の女性の胸を揉み始めた。
マリーの横に座る女性達はマリーが大好きな様で、身体を触られる事を喜んでいた。
顔を赤らめて快楽と高揚感で気持ち良さそうな顔をしている。
マリーは目配せして、お前もリサの胸を揉めと言わんばかりに合図した。
僕がリサの身体を触っても嫌がらないだろうと思ったが、なんだか気が引けた。
女性の身体を触りたいて願望はあったけど、身体を触った所で何も生まれないというか、意味が無い気がした。
彼女が触って欲しいと言えば喜んで触るのだけど、硬いブラジャーの上から胸を揉む事と、自分の評価を下げかねない行動を取る事が釣り合わない気がして躊躇した。
リサは断る事が出来ないタイプらしく、マリーが酒を勧めると困った様な表情を浮かべながらもゴクゴクと飲み干した。
リサの事が心配になって、これ以上飲まさない方が良いとマリーに言うと、マリーは「お前も飲んでみろ」と彼女が飲んでたグラスを僕に渡した。
リサのグラスに注がれた酒は水の様に薄くて、幾ら酔っていても、流石に気付くだろうと感じた。
リサが酔っ払いながら勧められた酒を、無理して飲んでる行動の全てが、演技なんじゃないかと感じて、自分だけが皆んなに、たばかれてた気がした。
上を向いてテキーラを喉に流し込むと、視界に入った天井には薄っすらと白色をした煙草の煙が溜まっていた。
そこへ、リサが新たに吐いた限りなく透明に近いBlue色の煙が立ち昇って煙の下に滞流する。
白い煙と青い煙が重なり、境界線が曖昧になって混ざっていくのを見てるとリサが僕の肩によたれ掛かってきた。
僕は、「もうこれ以上飲まない方が良いよ」と彼女を気遣いながらマリー達に視界を移した。
マリーは左側の、黒い髪の毛をしたロングヘアーの女の子と楽しそうに話していて、右側に座ってるショートヘアをした女の子が寂しそうに下を向いてた。
彼女は白色のキャミソールが可愛いくてよく似合っているけど、目元は切れ長で鋭い印象を受けた。
横でタバコを吸ってる大人びたリサとは対照的で、元気な少女感を全面に出した、明るいメイクをしてた。
それなのに、表情だけが暗くて、まるで迷子になった女の子の様にその瞳は悲しげに見えた。
僕は下を向いてた彼女に「飲んでる?」と声を掛けた。
彼女は僕の方を見て「飲んでますよ」と、まるで感心が無いような軽い返事をした。
私は「今日は誰を観に来たの?」と彼女に尋ねた。
彼女は自分の横で別の女性と戯れてるマリーを見ながら、「マリーさんを見に来ました」と答えた。
せっかく観に来た大好きなアーティストに、ほっとかれてる彼女の事を思うと、なんだか不敏な気がして「マリーさん、凄く酔っ払ってますね」と声を掛けた。
彼女は悲哀感を隠す様に「いつもの事ですから」と渇いた笑顔で答えた。
彼女の返答に、マリーとは長い付き合いで、親密な関係なんだと感じた。
そして、自分の事を放置する男を、寂しいのに見守る大らかさに感銘を受けて、私は彼女の事を素晴らしい女性だと感じ興味を持った。
名前を聞くと彼女は「ルナと言います」と笑顔で答えた。
ルナちゃんは駆け出しのアイドルらしく、このライヴハウスでも何度か歌っているそうだ。
彼女の整った出で立ちは、何となく彼女が清純派アイドルではないかと感じさせる何かがあった。
ルナは、僕が話し掛けると笑顔で愛想よく答えてくれて、なんだか嬉しくなった。
第一印象は無愛想で近寄りがたい雰囲気だったけど、話しかけて良かったと思えた。
僕がルナと話してるとリサが突然、僕の腕をぐいっと引っ張って「この人、チャラいんだけど!」とマリーを笑顔で非難した。
リサの話を聞くと、マリーが経験人数や、お酒の失敗談などを根掘り葉掘り聞いてくると言うのだ。
ルナは僕との会話を妨害されて、少し怒っている様な感じがした。
僕はルナに悪いと思いながらも、リサの話を聞いた。
リサは夜の蝶だけあって会話が上手だ。
僕が何も言わなくても彼女の方から、どんどん話しかけてくれて、気が付いたら彼女の話に引き込まれ時間があっと言う間に経っていた。
僕に抱き付きながら笑顔で話してるリサを見て、ライブハウスのマスターが「良かったら楽屋使ってください!」と僕達に言った。
さすが、東京のスラム街と言われてる場所にあるライブハウスだけの事はあるなと、僕は驚いた。
それらのやり取りで、皆んなが笑顔で盛り上がり楽しかった。
でも、片想いが報われないルナの事が気になって僕は時折、リサと会話しながらルナにも話しかけた。
始発の電車が動き出す時間になった。ライブ終わりで疲れていた事もあって僕は、先に帰ると皆んなに伝えた。
するとリサも「一緒に帰る」と言って二人で帰る事になった。
二人して席を立つと、それに気付いたマリーが、拍手をしながら大きな声で「おめでとう!」と叫んだ。
その声を聞くと皆んなが、一斉に盛り上がり祝福の拍手を送ってくれた。
僕は恥ずかしくて堪らなかったけど、皆んなの優しさと暖かい雰囲気を全身で感じて、嬉しかった。
∎
駅に向かって歩きながら、二人でたわいも無い会話をしていた。
彼女を見ると手をブラブラさせながら歩いていて、僕はドキドキしながら手を握ってみた。
飲み会で打ち解けたと思ったし、嫌がれはしないだろうと思って居たけど内心は不安だった。
手を繋ぐと彼女は一瞬驚いて、すぐに僕の腕に抱きついて来た。僕は嬉しくて、もっと強く彼女の手を、強く強く握った
僕達は近くにあったコンビニに入った。
僕が「何か飲みたい物はない?」と聞くと彼女は缶ビール六個入りのパックを持ち上げ、僕が持っていた買い物カゴに無造作に入れた。
僕は驚いて「こんなに飲めるの?」と聞くと、彼女は笑いながら「飲める飲める」と答えた。
僕は彼女の事を、とんでも無く、ぶっ飛んでる危ない奴なんじゃないかと思って、警戒心と不安感が入り混じる高揚感を感じた。
何か、とんでもない出来事が起きる様な、特別な予感を感じていたんだ。
∎
ホテルのロビーに入り、受付に表示された空き部屋を二人で見ながら、「どの部屋がいい?」とリサに聞いた。
彼女は、比較的価格の安い部屋の中から、「これか、これがいいな」とシンプルで普通の部屋を指差した。しかし、僕はそれらの部屋に似た装飾の最も高級な部屋を選んだ。
リサが驚いてこちらを見たので、「二人の初めての夜だから」と伝えた。
∎
部屋に着くと彼女は鞄などを無造作に置いて、さっき買ってきた缶ビールを「プシュッ」と、音をたてて開け、無造作に飲んだ。
私は彼女を後ろから抱きしめて、一緒にお風呂に入ろうと伝えた。
彼女は驚きの声をあげて「え?一緒に入るの?」と、戸惑いを見せて、どうするか、或いは断りかたを考えてる様子だった。
僕が彼女を見つめたまま、ゆっくりと彼女の口についたビールを味わう様にキスをすると、彼女は顔を少し赤らめ、照れ笑いを浮かべながら一つずつ服を脱いでいった。
ボタンを外すたびに、彼女の内面が少しずつ露わになり、僕はようやく安心できた。
仮に私の持ち物を全て盗んだ所で、女の身体を差し出す見返りを考えれば対等な取引だ。
捕まるリスクを犯して、私の持ち物を盗むために自分の身体を差し出すとは思えない。私はようやく警戒心を解く事が出来た。
そして、身体に良く無いお菓子を食べるように、脳が欲しがるジャンクフードを思うがままに喰らった。
タバコや酒と同じで、脳が欲しがるから彼女を摂取した。頭の片隅には、性病に感染する恐怖が残っていた。
無数の細菌とDNAが私の身体に吸収される事を感じて、私には無かったモノが入り込み溶け込んで行く事を感じた。
それは、まるで初めて大自然の中を自力で生き抜いた雑草を食った様な感覚で、強く逞しい野生の野草を食べた事で、自分の身体が強くなった気がした。
得体の知れない彼女は、危険を侵しても食う価値がある食い物のように感じていた。
∎
彼女が布団に包まりながら神妙なおもむきで、私に伝えたい事が有ると言ってきた。
僕の脳裏には瞬時に彼女が僕に伝えようとする内容の候補が複数浮かんだ。
厄介な病気持ちの可能性や金銭的援助を求める内容。または何か面倒事に巻き込まれていて、かくまって欲しい等だ。
消去法で、住居と一定の金銭援助を求める可能性が最も高いと思ったし、それが一番厄介だと感じた。
何処の馬の骨とも分からない人間を自分の住居に住まわす事は、手持ちの貯金全額を奪われる事よりリスクが有る。
もしも、この女が火事や漏水など第三者に対する損害を発生させたら、厄介な損害賠償問題に巻き込まれるからだ。
何より一時的に金銭を渡すより数日間住まわす方が、遥かに金が掛かる。
私は脳内で、彼女が発言する確率が高そうな告白内容にベストと思われる回答を数十件用意した。
どんな事を彼女に言われても動揺を表に出さない様に心の準備を整えてから、「どうしたの?何でも遠慮しないで言って」と伝えた。
リサは自分の生い立ちについて語り始めた。
高校を卒業した後はすぐに家を出て一人暮らしを始め、生きて行くためにsmクラブで働いたりしていたらしい。
彼女にとって自分の過去を打ち明けるのは相当な覚悟が要った様だった。
私は胸を撫で下ろした。
私が想定していた、自分に不利益が被る様な内容で無く安堵した。
他人が自分を拒絶する事を極度に恐れた態度が可哀想で見てられなかった。
どうして彼女が、そこまで自分の歩んで来た人生を卑屈に捉えて居るのかは分からなかったけど、とても悲しい気持ちになった。
リサを強く抱きしめて、彼女から溢れ出る涙を、全て舐めとって慰めた。
∎
二人して、いつのまにか寝て居た様で、私が目覚めた挙動で彼女も起きた。
リサは突然、私が聞いた事もない男の名前を呼んで、私に飛びついて強く抱き締めてきた。
私は驚いて身体が一瞬硬直した。
私の挙動で、リサは名前を間違えて呼んだ事に気付いた様だった。
彼女は私の腕から離れて、粗相をした幼児のように「ごめんなさい」と言ってきた。
彼女が、私と一夜を共にした理由を察した。
私は無言のまま、もう一度彼女深くを抱き寄せ、彼女の頭をゆっくり撫でた。
それでも彼女は、私の顔と交差した頭を離し、私の目を見てもう一度謝ってきた
私は予想外過ぎて、自分の人生でも一・二を争う程に心が動揺した。自分なら名前を間違えて呼んでも絶対に誤魔化す。
名前を聞いても忘れる事の方が多いので、相手と会話をしながら名前を再度聞き出す事なんて日常的にやってる事だ。
相手の名前を間違えるなんて取り返しの付かない失敗をして、動揺してる自分を相手に晒け出して謝る事なんて、自分には到底出来ない行為だ。
それを堂々とやってのけるリサの事が、自分より遥かに肝の据わった強い女性だと感じて、本能的に警戒感を抱いた。
私は彼女に見られたくなかった。
ショックを受けてる自分の姿を、他人に見られたくない気持ちが大きいのに、もっと大きなショックを受けてる彼女の方が、自分から私に見られる行動を取る事が信じられなかった。
この女の前では、心まで裸にされる様な恐怖に似た危機感を感じた。
常に人より、上の立ち位置から優しさや、寛容を示すのは慣れているし、それが一番安心する。
私は、目の前の裸の女が、自分より優れていると本能的に感じて早くこの場から逃げ出したかった。
一方リサは、名前を間違えて呼んでも怒らなかった私の事を、評価してくれてた様だ。
抱擁する彼女からは、嬉しそうな気持ちが伝わってきた。
私は、男なので性行為をするだけの女に大した拘りは無い。
少しでも多くの女に子孫を残させるのが雄の本来の繁殖戦略なので、単純に一人の女性を手篭めに出来た事が嬉しかった。
しかし、そんな達成感を打ち消すくらいに、彼女に抱いた畏敬の感情は私に強く影響していた。
「どうしてこんなに好きなんだろう」と、私に抱きついてくる彼女の行動や、言い回しに、この女の行動は何処まで計算されてるのかと、疑問に感じた。
何処までが本心で、何処からが私を籠絡し虜にさせる為の策略なのか解らなかった。
彼女が、唯の純粋な少女等ではなく、男を手玉に取るタイプのずる賢い女であると、私は確信してた。
∎
ライブ後で疲れていた事もあったし、早く彼女と離れ自分の心を落ち着けたかった。
私は今日は帰る旨を伝えると彼女はとても寂しがった。
「また連絡するから」と言い残して、早々に帰ろうとする私を何度も引き留めては、話したいと腕を引っ張り訴えて来る。
余裕の有る大人な自分を、演じる体力も気力も殆ど残って無かったが、少し遅い朝ごはんだけ一緒にたべる事にした。
ホテル街が立ち並ぶ登り坂を降った先に、オープンテラスのファストフード店が有り私たちは手際良く注文を済ませた。
店舗の日陰にある外の席に二人で座った。
通勤時間はとうに過ぎてるが、まだ昼食には早すぎる時間だからなのだろう。人はあまり居なかった。
私はライブ後の疲れが一気に出てたし、顔に日焼け止めを塗って無い事が気になってた。
今日はさっさと帰って、また後日、万全の状態で彼女と接したいと言う思いが強かった。
疲れて余裕がない状態だと、些細な事でイライラしたり、気を使えなかったりして、良い男を演じれ無い気がしてたからだ。
そう言った焦りや余裕のなさが、少なからず態度に出ていた。それなのに彼女が無理に引き留めてる状況になっていた。
そんな状態を感じ取って、リサが申し訳そうだった。
私は彼女が気にしない様に変に気を使っていつもより沢山喋った。
サンドイッチの味や、空気が綺麗で朝食が美味しく感じる事などを話題にしながら「リサと逢えて本当に良かったよ」と、感謝を伝えて場を和ませた。
目の前の女性の為に、自分が気を遣っていると言う状況が、私に取っては心地よかったし、心から安心できる状態だった。
初めは嫌々だったけど、彼女と食事をしてる状況が、いつの間にか、心から安らぎを感じ楽しかった。
彼女はまた会ってくれるのか?と何度も聞くので、私は必ず連絡すると繰り返し答えた。
私には後ろめたさが有った。
彼女は運命の人だと思わなかったし、何と言うかピンとくるモノが無かった。
リサの事を嫌いじゃないし、可愛い女性だと思ってる。
それでも、目を閉じれば幾千と浮かぶ今まで見て来た星々の中で、彼女だけが特別に輝いてる様には感じなかった。
あくまで限りがあって、終わりの見える関係止まりだと感じた。
だから、彼女を騙すように愛の言葉を言う事は出来なかった。
その気持ちが態度に出て居たのかも知れない。
彼女は僕に、自分の事をどう思うのか詳しく聞いてきた。
私は素直に立派だと思うと伝えた。
一人で自立して生き抜いてきた彼女の事を心から尊敬した。
私は財閥の後ろ盾が無ければ何もできない。
この身一つで放り出されても、安月給で誰かの下で働くなんて想像しただけで蕁麻疹が出る気分だ。
そんな環境で働いてる彼女の事を凄いと思ったし、女優の様な所作が見ていて楽しいと説明した。
「ずっと見ていたくなる魅力が有る」と伝えた。
彼女は凄く喜んでくれたし、僕が好きな事が笑顔から伝わってきた。
だからこそ僕は複雑な感情だった。
僕は昨日の夜に、全ての好きな気持ちを彼女に注いだ。
その時に、僕が彼女に抱いてた好きな気持ちが、これ以上大きくなる事は無いと本能的に感じた。
そう感じた理由はハッキリとは判らない。
敢えて定義付けるなら、僕が尽くす側で、彼女は尽くされる側という関係性が出来上がってた。
僕は彼女の気分が良くなるように、沢山気を使って行った。
お姫様に尽くす執事の様に会話や、支払いなど、細心の注意を払っていた。
彼女が僕を好きになるのは、僕の努力が実を結んだ結果で、全ては僕の思惑通りに進んでいった。だが、その過程で彼女に対して何か特別な感情を抱くことはなかった。
僕は彼女の精神的な痛みを軽減し、彼女は僕に快楽を提供した。
それ以上の関係性へと進む事を、僕が求める事は無いと感じた。
僕の鼻の高さや、楽曲に込められて思想などを誉めながら、繰り返し、僕の事を好きだと感情を伝えてくるリサに、お礼を言った。
そして、すぐ続けて僕は彼女に「今は恋人を作る気は無い」と伝えた。
するとリサの笑顔は一瞬で曇り、少し考え込んでから、ゆっくりと重い空気を吐くように「恋人でなくとも、セフレとしての関係でも良い」と言ってきた。
私は首を横に振りながら、その提案を断った。
自分を一途に愛さない人間は信用できない。
私が誰を愛すかは私の自由だし、彼女に私を独占させはしない。
だけど私に愛して欲しいなら、彼女は私だけを追い求め続けるべきだ。
私にとって彼女は彼女候補の一人で、彼女にとって私は世界唯一の理想の男性。
彼女は私を愛しているかもしれないけど、私は彼女を愛して居ないのだから、リサの私に対する愛が本物なら、この関係性が最も適切だと感じた。
私は彼女に言った。「セフレとか要らない、俺を本気で愛す気がないならもう会う気は無い」と伝えた。
彼女は、私に抱きつきながら「どうしてこんなに好きになってしまったんだろう」と顔を埋めて来た。
そういう一連の、男に愛される女としての愛嬌を上手に出す行動が、彼女の男に愛される技術力の高さを表して居て、彼女からは色んな事が学べそうだなと感じた。
彼女が時折見せる【あざとい】演技が無くなった、本当のリサの顔が見たいと思った。
彼女への興味と、私の中に有る支配欲が、そう言った感情を呼び起こしたのだろう。
自分が安心して彼女と接する事が出来るようになる為に、心の底から彼女を従属させ支配したいと言う願望が、自分の中に沸き起こったのを感じた。
この瞬間に初めて、少しだけ彼女へ恋した事を自覚した。
幕が閉じられ、ステージ裏で息を上がったバンドメンバーたちは満足そうな顔を浮かべていた。カーテンを突き抜けてくる、観客たちの黄色い声援が耳に響く。ステージを片付けて、息が上がったまま客席へ向かった。
ファンたちに挨拶しながら物販でCDを売っていると、一人の女性がCDを買った後に話しかけてきた。
長い金髪をなびかせ、黒いドレスが胸元を強調した、その姿は一見、白人系の外国人にも見える。年齢はおそらく二十五、六歳前後だろう。
しかし、その外見以上に印象的だったのは彼女の持つ、どこか世の中に対して大きな期待を抱いていないような態度だ。その姿勢は、まるで世間を斜めから眺めているかのようで、彼女自身が「綺麗な薔薇には棘がある」という言葉を体現しているかのように思えた。
私は凛と佇んでる彼女に、ライブを見てくれた御礼を言い、「どこから来たのですか?」と訪ねた。
彼女は「神奈川から来ました」と答え、それ以上は何も言わなかった。私は「CDを買ってくれてありがとう。良かったら後で話しましょう」と言ってから、楽屋に戻った。
その後、私はメイクを落とした。三十二歳の男のすっぴんは、アーティストとしては、老けたオジさん感が強くなり過ぎる。そこで、目元に塗りたくったパンダのような黒いマスカラと、黒い唇のメイクだけを落とし、ファンデーションは適度に残すことにした。
これで、ステージに立っていた ヴィジュアル系ミュージシャン・ヤヨイ の素顔が出来た。ショートボブヘアは、フルメイクのときは悪魔的に見えるが、すっぴん風の男の顔には、不気味に写り個性が強すぎる。
真っ当な社会人らしさを示すために横髪を耳にかけて、ツーブロック風にすることにした。
∎
イベントは無事終了し、そのままライブハウスで朝まで打ち上げを行うことになった。多くのお客さんが帰った中、ライブハウスの隅で煙草を吸っている金髪の女性が目に留まった。
彼女はさっきCDを買ってくれた子だったかな、と思いながら彼女に近づいた。万が一人違いだったら困るので、「この後ここで打ち上げするんだけど、一緒に飲まない?」と声を掛けた。彼女は「はい」と答え、私の後をついてきた。
∎
ライブハウスのホールに、次々と折りたたみ式のテーブルと机が組み立てられ並べられる。BAR営業が始まり、80年代の古いビンテージロックが店内に流れ始めた。
私は椅子を引いて、後ろについてきた彼女に座るように促した。彼女は軽く会釈して座り、私も隣の席に座った。
直ぐに今日のイベントを主催した、ライブハウスのスタッフでもあり先輩ミュージシャンのマリーが、酒を持って私の真正面の向かいの席に座った。
彼は綺麗な茶髪のロン毛で如何にも煌びやかな夜の世界が似合う紳士的な優男だ。小綺麗な細身のスーツを着ていて、長身で華やかな香りを漂わせた、男が見ても美しい男性だ。
マリーは私と彼女にテキーラのショットを手渡し優しい笑顔で「取り敢えず乾杯しよう」と微笑んだ。
僕もマリーから手渡された同じ酒を、喉に流し込むと、食道からお腹にかけて焼ける様な感覚がした。
まるで自分がドラゴンになって炎を口から噴き出した気分だ。
直ぐに脳がぶっ飛んでクラクラした。世界が歪んで虹がかかった様に美しい空間にいる様な感じがした。
マリーは手招きして、まだ席についていない女性二人を呼んだ。間もなく、マリーの両サイドに女性二人が座り、合わせて五人が同じテーブルを囲み、酒を飲むことになった。
他の席でもいくつかのグループが形成され、皆それぞれに楽しそうに酒を飲んでいた。
すぐ隣からタバコの匂いが漂ってきて、彼女が無造作にテーブルに置いた、真っ黒なタバコの箱には白いドクロの絵と「DEATH」の文字がプリントされていた。
その見るからに毒々しいタバコを吸っている彼女の姿は、何とも危険な雰囲気を醸し出していて、まるで黒魔術を使う金髪の魔女のように見えた。
私は彼女に名前を訪ねた。
彼女は白く甘い煙を吐いて「リサと言います」と答えた。
そして、おもむろに彼女は組んでた足を解き左右反対に組み直した。
その時に、左の太ももに赤い何かしらの模様が描かれたTattooが一瞬見えたが、私は直ぐに眼を逸らしたので、何が描かれているのかは分からなかった。
ただ、彼女が普通じゃない女性だって事は感じた。
リサは酒の入ったグラスを小指で掻き回した。
氷がカラカラと音をたてていた。
酒の付いた小指に吸い付き、チュッパと音を鳴らし、優しくグラスにKissするかの様に、一口酒を飲んだ。
酒を飲むだけで人の視線を釘付けにする一連の仕草が、洗練された大人の女性の色香を醸し出してて、きっと夜の世界で生きてきた女性なんだろうなと感じた。
マリーも同じ事を思った様で「仕事は何やってんの? 風、それともキャバ?」と、無邪気な笑顔でリサに尋ねた。
マリーの屈託ない笑顔の問い掛けに彼女は困りながらも笑顔で「キャバクラです」と答えてた。
私は職業の事とか聞いちゃいけない様な気がしていたのに、一瞬で人の垣根を超えて仲良くなるマリーの人間力に驚いた。
だからマリーは女性を引きつけるんだろうなと感じて、素直に感銘を受けた。
マリーとリサが楽しそうに話してるのを見て、こんな風に自分も人と気軽に話す事が出来る人間になりたいと感じた。
会話が進み心が打ち解けたのか、酒を飲みながらマリーが隣に座ってる左右二人の女性の胸を揉み始めた。
マリーの横に座る女性達はマリーが大好きな様で、身体を触られる事を喜んでいた。
顔を赤らめて快楽と高揚感で気持ち良さそうな顔をしている。
マリーは目配せして、お前もリサの胸を揉めと言わんばかりに合図した。
僕がリサの身体を触っても嫌がらないだろうと思ったが、なんだか気が引けた。
女性の身体を触りたいて願望はあったけど、身体を触った所で何も生まれないというか、意味が無い気がした。
彼女が触って欲しいと言えば喜んで触るのだけど、硬いブラジャーの上から胸を揉む事と、自分の評価を下げかねない行動を取る事が釣り合わない気がして躊躇した。
リサは断る事が出来ないタイプらしく、マリーが酒を勧めると困った様な表情を浮かべながらもゴクゴクと飲み干した。
リサの事が心配になって、これ以上飲まさない方が良いとマリーに言うと、マリーは「お前も飲んでみろ」と彼女が飲んでたグラスを僕に渡した。
リサのグラスに注がれた酒は水の様に薄くて、幾ら酔っていても、流石に気付くだろうと感じた。
リサが酔っ払いながら勧められた酒を、無理して飲んでる行動の全てが、演技なんじゃないかと感じて、自分だけが皆んなに、たばかれてた気がした。
上を向いてテキーラを喉に流し込むと、視界に入った天井には薄っすらと白色をした煙草の煙が溜まっていた。
そこへ、リサが新たに吐いた限りなく透明に近いBlue色の煙が立ち昇って煙の下に滞流する。
白い煙と青い煙が重なり、境界線が曖昧になって混ざっていくのを見てるとリサが僕の肩によたれ掛かってきた。
僕は、「もうこれ以上飲まない方が良いよ」と彼女を気遣いながらマリー達に視界を移した。
マリーは左側の、黒い髪の毛をしたロングヘアーの女の子と楽しそうに話していて、右側に座ってるショートヘアをした女の子が寂しそうに下を向いてた。
彼女は白色のキャミソールが可愛いくてよく似合っているけど、目元は切れ長で鋭い印象を受けた。
横でタバコを吸ってる大人びたリサとは対照的で、元気な少女感を全面に出した、明るいメイクをしてた。
それなのに、表情だけが暗くて、まるで迷子になった女の子の様にその瞳は悲しげに見えた。
僕は下を向いてた彼女に「飲んでる?」と声を掛けた。
彼女は僕の方を見て「飲んでますよ」と、まるで感心が無いような軽い返事をした。
私は「今日は誰を観に来たの?」と彼女に尋ねた。
彼女は自分の横で別の女性と戯れてるマリーを見ながら、「マリーさんを見に来ました」と答えた。
せっかく観に来た大好きなアーティストに、ほっとかれてる彼女の事を思うと、なんだか不敏な気がして「マリーさん、凄く酔っ払ってますね」と声を掛けた。
彼女は悲哀感を隠す様に「いつもの事ですから」と渇いた笑顔で答えた。
彼女の返答に、マリーとは長い付き合いで、親密な関係なんだと感じた。
そして、自分の事を放置する男を、寂しいのに見守る大らかさに感銘を受けて、私は彼女の事を素晴らしい女性だと感じ興味を持った。
名前を聞くと彼女は「ルナと言います」と笑顔で答えた。
ルナちゃんは駆け出しのアイドルらしく、このライヴハウスでも何度か歌っているそうだ。
彼女の整った出で立ちは、何となく彼女が清純派アイドルではないかと感じさせる何かがあった。
ルナは、僕が話し掛けると笑顔で愛想よく答えてくれて、なんだか嬉しくなった。
第一印象は無愛想で近寄りがたい雰囲気だったけど、話しかけて良かったと思えた。
僕がルナと話してるとリサが突然、僕の腕をぐいっと引っ張って「この人、チャラいんだけど!」とマリーを笑顔で非難した。
リサの話を聞くと、マリーが経験人数や、お酒の失敗談などを根掘り葉掘り聞いてくると言うのだ。
ルナは僕との会話を妨害されて、少し怒っている様な感じがした。
僕はルナに悪いと思いながらも、リサの話を聞いた。
リサは夜の蝶だけあって会話が上手だ。
僕が何も言わなくても彼女の方から、どんどん話しかけてくれて、気が付いたら彼女の話に引き込まれ時間があっと言う間に経っていた。
僕に抱き付きながら笑顔で話してるリサを見て、ライブハウスのマスターが「良かったら楽屋使ってください!」と僕達に言った。
さすが、東京のスラム街と言われてる場所にあるライブハウスだけの事はあるなと、僕は驚いた。
それらのやり取りで、皆んなが笑顔で盛り上がり楽しかった。
でも、片想いが報われないルナの事が気になって僕は時折、リサと会話しながらルナにも話しかけた。
始発の電車が動き出す時間になった。ライブ終わりで疲れていた事もあって僕は、先に帰ると皆んなに伝えた。
するとリサも「一緒に帰る」と言って二人で帰る事になった。
二人して席を立つと、それに気付いたマリーが、拍手をしながら大きな声で「おめでとう!」と叫んだ。
その声を聞くと皆んなが、一斉に盛り上がり祝福の拍手を送ってくれた。
僕は恥ずかしくて堪らなかったけど、皆んなの優しさと暖かい雰囲気を全身で感じて、嬉しかった。
∎
駅に向かって歩きながら、二人でたわいも無い会話をしていた。
彼女を見ると手をブラブラさせながら歩いていて、僕はドキドキしながら手を握ってみた。
飲み会で打ち解けたと思ったし、嫌がれはしないだろうと思って居たけど内心は不安だった。
手を繋ぐと彼女は一瞬驚いて、すぐに僕の腕に抱きついて来た。僕は嬉しくて、もっと強く彼女の手を、強く強く握った
僕達は近くにあったコンビニに入った。
僕が「何か飲みたい物はない?」と聞くと彼女は缶ビール六個入りのパックを持ち上げ、僕が持っていた買い物カゴに無造作に入れた。
僕は驚いて「こんなに飲めるの?」と聞くと、彼女は笑いながら「飲める飲める」と答えた。
僕は彼女の事を、とんでも無く、ぶっ飛んでる危ない奴なんじゃないかと思って、警戒心と不安感が入り混じる高揚感を感じた。
何か、とんでもない出来事が起きる様な、特別な予感を感じていたんだ。
∎
ホテルのロビーに入り、受付に表示された空き部屋を二人で見ながら、「どの部屋がいい?」とリサに聞いた。
彼女は、比較的価格の安い部屋の中から、「これか、これがいいな」とシンプルで普通の部屋を指差した。しかし、僕はそれらの部屋に似た装飾の最も高級な部屋を選んだ。
リサが驚いてこちらを見たので、「二人の初めての夜だから」と伝えた。
∎
部屋に着くと彼女は鞄などを無造作に置いて、さっき買ってきた缶ビールを「プシュッ」と、音をたてて開け、無造作に飲んだ。
私は彼女を後ろから抱きしめて、一緒にお風呂に入ろうと伝えた。
彼女は驚きの声をあげて「え?一緒に入るの?」と、戸惑いを見せて、どうするか、或いは断りかたを考えてる様子だった。
僕が彼女を見つめたまま、ゆっくりと彼女の口についたビールを味わう様にキスをすると、彼女は顔を少し赤らめ、照れ笑いを浮かべながら一つずつ服を脱いでいった。
ボタンを外すたびに、彼女の内面が少しずつ露わになり、僕はようやく安心できた。
仮に私の持ち物を全て盗んだ所で、女の身体を差し出す見返りを考えれば対等な取引だ。
捕まるリスクを犯して、私の持ち物を盗むために自分の身体を差し出すとは思えない。私はようやく警戒心を解く事が出来た。
そして、身体に良く無いお菓子を食べるように、脳が欲しがるジャンクフードを思うがままに喰らった。
タバコや酒と同じで、脳が欲しがるから彼女を摂取した。頭の片隅には、性病に感染する恐怖が残っていた。
無数の細菌とDNAが私の身体に吸収される事を感じて、私には無かったモノが入り込み溶け込んで行く事を感じた。
それは、まるで初めて大自然の中を自力で生き抜いた雑草を食った様な感覚で、強く逞しい野生の野草を食べた事で、自分の身体が強くなった気がした。
得体の知れない彼女は、危険を侵しても食う価値がある食い物のように感じていた。
∎
彼女が布団に包まりながら神妙なおもむきで、私に伝えたい事が有ると言ってきた。
僕の脳裏には瞬時に彼女が僕に伝えようとする内容の候補が複数浮かんだ。
厄介な病気持ちの可能性や金銭的援助を求める内容。または何か面倒事に巻き込まれていて、かくまって欲しい等だ。
消去法で、住居と一定の金銭援助を求める可能性が最も高いと思ったし、それが一番厄介だと感じた。
何処の馬の骨とも分からない人間を自分の住居に住まわす事は、手持ちの貯金全額を奪われる事よりリスクが有る。
もしも、この女が火事や漏水など第三者に対する損害を発生させたら、厄介な損害賠償問題に巻き込まれるからだ。
何より一時的に金銭を渡すより数日間住まわす方が、遥かに金が掛かる。
私は脳内で、彼女が発言する確率が高そうな告白内容にベストと思われる回答を数十件用意した。
どんな事を彼女に言われても動揺を表に出さない様に心の準備を整えてから、「どうしたの?何でも遠慮しないで言って」と伝えた。
リサは自分の生い立ちについて語り始めた。
高校を卒業した後はすぐに家を出て一人暮らしを始め、生きて行くためにsmクラブで働いたりしていたらしい。
彼女にとって自分の過去を打ち明けるのは相当な覚悟が要った様だった。
私は胸を撫で下ろした。
私が想定していた、自分に不利益が被る様な内容で無く安堵した。
他人が自分を拒絶する事を極度に恐れた態度が可哀想で見てられなかった。
どうして彼女が、そこまで自分の歩んで来た人生を卑屈に捉えて居るのかは分からなかったけど、とても悲しい気持ちになった。
リサを強く抱きしめて、彼女から溢れ出る涙を、全て舐めとって慰めた。
∎
二人して、いつのまにか寝て居た様で、私が目覚めた挙動で彼女も起きた。
リサは突然、私が聞いた事もない男の名前を呼んで、私に飛びついて強く抱き締めてきた。
私は驚いて身体が一瞬硬直した。
私の挙動で、リサは名前を間違えて呼んだ事に気付いた様だった。
彼女は私の腕から離れて、粗相をした幼児のように「ごめんなさい」と言ってきた。
彼女が、私と一夜を共にした理由を察した。
私は無言のまま、もう一度彼女深くを抱き寄せ、彼女の頭をゆっくり撫でた。
それでも彼女は、私の顔と交差した頭を離し、私の目を見てもう一度謝ってきた
私は予想外過ぎて、自分の人生でも一・二を争う程に心が動揺した。自分なら名前を間違えて呼んでも絶対に誤魔化す。
名前を聞いても忘れる事の方が多いので、相手と会話をしながら名前を再度聞き出す事なんて日常的にやってる事だ。
相手の名前を間違えるなんて取り返しの付かない失敗をして、動揺してる自分を相手に晒け出して謝る事なんて、自分には到底出来ない行為だ。
それを堂々とやってのけるリサの事が、自分より遥かに肝の据わった強い女性だと感じて、本能的に警戒感を抱いた。
私は彼女に見られたくなかった。
ショックを受けてる自分の姿を、他人に見られたくない気持ちが大きいのに、もっと大きなショックを受けてる彼女の方が、自分から私に見られる行動を取る事が信じられなかった。
この女の前では、心まで裸にされる様な恐怖に似た危機感を感じた。
常に人より、上の立ち位置から優しさや、寛容を示すのは慣れているし、それが一番安心する。
私は、目の前の裸の女が、自分より優れていると本能的に感じて早くこの場から逃げ出したかった。
一方リサは、名前を間違えて呼んでも怒らなかった私の事を、評価してくれてた様だ。
抱擁する彼女からは、嬉しそうな気持ちが伝わってきた。
私は、男なので性行為をするだけの女に大した拘りは無い。
少しでも多くの女に子孫を残させるのが雄の本来の繁殖戦略なので、単純に一人の女性を手篭めに出来た事が嬉しかった。
しかし、そんな達成感を打ち消すくらいに、彼女に抱いた畏敬の感情は私に強く影響していた。
「どうしてこんなに好きなんだろう」と、私に抱きついてくる彼女の行動や、言い回しに、この女の行動は何処まで計算されてるのかと、疑問に感じた。
何処までが本心で、何処からが私を籠絡し虜にさせる為の策略なのか解らなかった。
彼女が、唯の純粋な少女等ではなく、男を手玉に取るタイプのずる賢い女であると、私は確信してた。
∎
ライブ後で疲れていた事もあったし、早く彼女と離れ自分の心を落ち着けたかった。
私は今日は帰る旨を伝えると彼女はとても寂しがった。
「また連絡するから」と言い残して、早々に帰ろうとする私を何度も引き留めては、話したいと腕を引っ張り訴えて来る。
余裕の有る大人な自分を、演じる体力も気力も殆ど残って無かったが、少し遅い朝ごはんだけ一緒にたべる事にした。
ホテル街が立ち並ぶ登り坂を降った先に、オープンテラスのファストフード店が有り私たちは手際良く注文を済ませた。
店舗の日陰にある外の席に二人で座った。
通勤時間はとうに過ぎてるが、まだ昼食には早すぎる時間だからなのだろう。人はあまり居なかった。
私はライブ後の疲れが一気に出てたし、顔に日焼け止めを塗って無い事が気になってた。
今日はさっさと帰って、また後日、万全の状態で彼女と接したいと言う思いが強かった。
疲れて余裕がない状態だと、些細な事でイライラしたり、気を使えなかったりして、良い男を演じれ無い気がしてたからだ。
そう言った焦りや余裕のなさが、少なからず態度に出ていた。それなのに彼女が無理に引き留めてる状況になっていた。
そんな状態を感じ取って、リサが申し訳そうだった。
私は彼女が気にしない様に変に気を使っていつもより沢山喋った。
サンドイッチの味や、空気が綺麗で朝食が美味しく感じる事などを話題にしながら「リサと逢えて本当に良かったよ」と、感謝を伝えて場を和ませた。
目の前の女性の為に、自分が気を遣っていると言う状況が、私に取っては心地よかったし、心から安心できる状態だった。
初めは嫌々だったけど、彼女と食事をしてる状況が、いつの間にか、心から安らぎを感じ楽しかった。
彼女はまた会ってくれるのか?と何度も聞くので、私は必ず連絡すると繰り返し答えた。
私には後ろめたさが有った。
彼女は運命の人だと思わなかったし、何と言うかピンとくるモノが無かった。
リサの事を嫌いじゃないし、可愛い女性だと思ってる。
それでも、目を閉じれば幾千と浮かぶ今まで見て来た星々の中で、彼女だけが特別に輝いてる様には感じなかった。
あくまで限りがあって、終わりの見える関係止まりだと感じた。
だから、彼女を騙すように愛の言葉を言う事は出来なかった。
その気持ちが態度に出て居たのかも知れない。
彼女は僕に、自分の事をどう思うのか詳しく聞いてきた。
私は素直に立派だと思うと伝えた。
一人で自立して生き抜いてきた彼女の事を心から尊敬した。
私は財閥の後ろ盾が無ければ何もできない。
この身一つで放り出されても、安月給で誰かの下で働くなんて想像しただけで蕁麻疹が出る気分だ。
そんな環境で働いてる彼女の事を凄いと思ったし、女優の様な所作が見ていて楽しいと説明した。
「ずっと見ていたくなる魅力が有る」と伝えた。
彼女は凄く喜んでくれたし、僕が好きな事が笑顔から伝わってきた。
だからこそ僕は複雑な感情だった。
僕は昨日の夜に、全ての好きな気持ちを彼女に注いだ。
その時に、僕が彼女に抱いてた好きな気持ちが、これ以上大きくなる事は無いと本能的に感じた。
そう感じた理由はハッキリとは判らない。
敢えて定義付けるなら、僕が尽くす側で、彼女は尽くされる側という関係性が出来上がってた。
僕は彼女の気分が良くなるように、沢山気を使って行った。
お姫様に尽くす執事の様に会話や、支払いなど、細心の注意を払っていた。
彼女が僕を好きになるのは、僕の努力が実を結んだ結果で、全ては僕の思惑通りに進んでいった。だが、その過程で彼女に対して何か特別な感情を抱くことはなかった。
僕は彼女の精神的な痛みを軽減し、彼女は僕に快楽を提供した。
それ以上の関係性へと進む事を、僕が求める事は無いと感じた。
僕の鼻の高さや、楽曲に込められて思想などを誉めながら、繰り返し、僕の事を好きだと感情を伝えてくるリサに、お礼を言った。
そして、すぐ続けて僕は彼女に「今は恋人を作る気は無い」と伝えた。
するとリサの笑顔は一瞬で曇り、少し考え込んでから、ゆっくりと重い空気を吐くように「恋人でなくとも、セフレとしての関係でも良い」と言ってきた。
私は首を横に振りながら、その提案を断った。
自分を一途に愛さない人間は信用できない。
私が誰を愛すかは私の自由だし、彼女に私を独占させはしない。
だけど私に愛して欲しいなら、彼女は私だけを追い求め続けるべきだ。
私にとって彼女は彼女候補の一人で、彼女にとって私は世界唯一の理想の男性。
彼女は私を愛しているかもしれないけど、私は彼女を愛して居ないのだから、リサの私に対する愛が本物なら、この関係性が最も適切だと感じた。
私は彼女に言った。「セフレとか要らない、俺を本気で愛す気がないならもう会う気は無い」と伝えた。
彼女は、私に抱きつきながら「どうしてこんなに好きになってしまったんだろう」と顔を埋めて来た。
そういう一連の、男に愛される女としての愛嬌を上手に出す行動が、彼女の男に愛される技術力の高さを表して居て、彼女からは色んな事が学べそうだなと感じた。
彼女が時折見せる【あざとい】演技が無くなった、本当のリサの顔が見たいと思った。
彼女への興味と、私の中に有る支配欲が、そう言った感情を呼び起こしたのだろう。
自分が安心して彼女と接する事が出来るようになる為に、心の底から彼女を従属させ支配したいと言う願望が、自分の中に沸き起こったのを感じた。
この瞬間に初めて、少しだけ彼女へ恋した事を自覚した。