専属SPは今回限り
5 専属SPは二兎をも得る
SP
土曜のこの日、実家である『いずみボクシングジム』へ、枝依市内の各所からアマチュアボクサーたちが集まってきていた。時刻は朝の九時前。数か月前から決まっていたこの親善試合のために、俺――和泉敬斗もきちんと体を仕上げてきたし、集中もいい感じになっていると思う。
「おはよーございまーす」
「よろしくお願いしまーす」
そもそも、俺にとってボクシングは『ライフワーク』みたいなもんだ。
物心ついたときから始めたボクシングは、他のどんなものよりも付き合いが長い。辞めたくなったことはあっても、結局いつもボクシングを基準にしているんだから、もう切っても切れないものなんだろう。
休日になれば陽の出の頃からロードワークに飛び出し、ストレッチやウォームアップをひとしきりやった後、自宅でスパーリングを始めるのがセルフメニュー。練習生が来れば、都度相手をしたりしてもらったり。
「おーす、敬斗。いくら和泉会長の息子とはいえ、今回こそ優勝させねーからな?」
「フッフッフ。俺もそういうわけにはいかねースからねぇ。今回も全力でやらしてもらいます」
ボクシングをして汗水をたれ流したり、ボクシングのためにボディメイキングをしている時間は、自分の精神の浄化作業だと思っている。めちゃくちゃやりがいを感じるし、結果が伴えば単純に嬉しいし。
だからたとえキツくても、食事制限だってデトックスだと思ってやってるわけ。今回のこれのために体重落とすのは結構キツかったけど、ギリギリセーフ、間に合った。
「敬斗ォ! ちょっと来い」
「あん? なんだよ親父」
「ミーティングするぞー」
「はーい」
もちろん精神的な準備だってしなければならない。ここ一か月と少し、自分の心に原因不明にモヤモヤと滞る想いなんつーもんは、今日の汗水と一緒に流してやろうと思っている。リングに落として、踏み荒らされて、溶けてなくなれば万事解決に違いない。俺も忙しいんだ、暇じゃねーんだ。
「いいか。今日の試合は、我が『いずみボクシングジム』の威信をかけた闘いだかんな? みんな全力で身体作ってきたろ? だぁら全力で拳を突き出してけ」
「ハイっ」
拳を突き出す、か。
そういえば、あのときの傷はものすごくあっさり治っちまったっけ。ほら、ガラスの破片が俺の手にいくつもぶっ刺さったとき。
「…………」
右掌を見つめる。
もう二か月も前の怪我だってのもあるけど、今や跡形もない。あんなにたくさん小さなガラス片が刺さっていたのに、跡がないからどこに刺さっていたのかまったく思い出せないんだから、呆気ないような気もする。感情っていう厄介なモンは、ぶっ刺さったままなかなか抜けねーってのにな。
「な、敬斗! いいか、わかるな?」
「へぁっ、ハイっ」
やべ。なんも聞いてなかった。
――SPが居てくれるって安心感、ていうか拠り所? それあるだけでも違うの。私のこと知ってる人と……振り返ったら『身内が誰かいる』っていう、それだけで私、頑張れたの。
今になってわかる。アイツのあの言葉の意味。
――だからありがとう。私の『メンタル』、護ってくれて。
もっと自然にアイツを振り向かせられて、心の底から笑わすことができたなら。
――私ね、クラスに限ったことじゃないけど、男の子と話すの……その、恥ずかしいの。
少しずつでも俺のこと、アイツが苦手だって思わなくなったなら。
――私は、『敬斗くんがいいんです』!
きっと尊敬だけじゃなくて、もっとこう、近い距離で鴨重紗良を見てもいいなら。
――敬斗くんは、私がどうなっても、平気なの?
「あーもうっ! わーったよ、ウルセーなぁ!」
そう一気に大きく吐き出して、はたと気が付く。
「…………」
「…………」
あれ? 周囲が変に、シンとしているのは、どうしてでしょう。
恐る恐る顔を上げると、うわお、なんと。親父が怒りマックスのすがたで俺を睨み倒しているではありませんか。
「テメー敬斗ぉ、ゴラァ。誰がウルセーってェ? アアン?」
低すぎる声は小さくも凄味があって、うーん怖い怖い!
「ち、違、親父……いや会長。そうじゃなくて、これはその」
慌てふためくももう遅い。親父を、ましてボクシングジムにいる間のこの男を怒らせて、無事で済むわけがない。特に『ボクシングジム会長』としての親父は鬼みたいな男で、つまり今現在きちんと集中してないことがバレた俺は、それなりの大ピンチだったりするわけで。
すう、と空気を吸い込む親父。降ってくるであろう槍のような言葉を受ける覚悟を決める俺。
「テメー今日はKOでの勝ち以外、絶っ対認めてやらねーかんなァ!」
最悪の怒号が俺にぶっ刺さりました。
♡ ◇
三分間の一ラウンドを三回繰り返す『三回戦システム』という、簡易試合形式の今回。俺は今のところ、三ラウンドに達しない内にきっちりKO勝ちで進むことが出来ている。
「チラチラ時計気にしてんじゃあねーぞ、敬斗ォ!」
ゴングが鳴って、一分間のインターバル。
「ぬゎにさっきからよそ見してやがんだ、テメー! 準決勝戦だぞ集中しろ!」
「親父っ、ハァ、俺、決勝まで、やれるかわかんねー、ハァ」
「はーァ? 甘ったれたことぬかすな、きっちり勝て。勝てる相手なンだからよォ!」
水を含んで、バケツへ吐き出す。やっぱり血が混ざってる。まぁ、こんなのいつものことだ。
「もう、ハァ。一二時、過ぎてンだよね」
「だからなんだ」
「俺、早く行かなきゃなんねーとこ、ハァ、あんだよ」
「あん?」
「ハァ、ハァ、もう、始まってっからさ」
「なにが」
「すぐ傍に行ってやんねーと、ダメなんだよ、今日は特に。ハァ」
「…………」
珍しくボロボロにされちまった顔であろうとも、口の中どんだけ切っていようとも、バチバチ殴られたところが鈍く痛かろうとも。
親父は片眉を上げて「鴨重の……」と呟いて、俺の言う「行ってやんねーとダメ」の内容をなんとなく察したらしかった。だが、親父はクンと眉を寄せて、身構える。
「テメーなァ。この試合より大事だっつーのか、その『行ってやんねーとダメなとこ』ってのは」
わかってるくせにわざと訊いてくるなんて。わが親父ながら意地ワリーな。
「あーそーだよ。ハァ、でも、試合が大事じゃねーわけじゃ、ねーよ」
「だったら尚更、行くならきっちり優勝してから行きやがれッ。どっちも死守してこその和泉敬斗だろ」
カァーン、とゴングの音。チクショウ、三回戦目に入っちまった。
でも珍しく、親父にしては良いこと言うなと思ったんだ。
「おはよーございまーす」
「よろしくお願いしまーす」
そもそも、俺にとってボクシングは『ライフワーク』みたいなもんだ。
物心ついたときから始めたボクシングは、他のどんなものよりも付き合いが長い。辞めたくなったことはあっても、結局いつもボクシングを基準にしているんだから、もう切っても切れないものなんだろう。
休日になれば陽の出の頃からロードワークに飛び出し、ストレッチやウォームアップをひとしきりやった後、自宅でスパーリングを始めるのがセルフメニュー。練習生が来れば、都度相手をしたりしてもらったり。
「おーす、敬斗。いくら和泉会長の息子とはいえ、今回こそ優勝させねーからな?」
「フッフッフ。俺もそういうわけにはいかねースからねぇ。今回も全力でやらしてもらいます」
ボクシングをして汗水をたれ流したり、ボクシングのためにボディメイキングをしている時間は、自分の精神の浄化作業だと思っている。めちゃくちゃやりがいを感じるし、結果が伴えば単純に嬉しいし。
だからたとえキツくても、食事制限だってデトックスだと思ってやってるわけ。今回のこれのために体重落とすのは結構キツかったけど、ギリギリセーフ、間に合った。
「敬斗ォ! ちょっと来い」
「あん? なんだよ親父」
「ミーティングするぞー」
「はーい」
もちろん精神的な準備だってしなければならない。ここ一か月と少し、自分の心に原因不明にモヤモヤと滞る想いなんつーもんは、今日の汗水と一緒に流してやろうと思っている。リングに落として、踏み荒らされて、溶けてなくなれば万事解決に違いない。俺も忙しいんだ、暇じゃねーんだ。
「いいか。今日の試合は、我が『いずみボクシングジム』の威信をかけた闘いだかんな? みんな全力で身体作ってきたろ? だぁら全力で拳を突き出してけ」
「ハイっ」
拳を突き出す、か。
そういえば、あのときの傷はものすごくあっさり治っちまったっけ。ほら、ガラスの破片が俺の手にいくつもぶっ刺さったとき。
「…………」
右掌を見つめる。
もう二か月も前の怪我だってのもあるけど、今や跡形もない。あんなにたくさん小さなガラス片が刺さっていたのに、跡がないからどこに刺さっていたのかまったく思い出せないんだから、呆気ないような気もする。感情っていう厄介なモンは、ぶっ刺さったままなかなか抜けねーってのにな。
「な、敬斗! いいか、わかるな?」
「へぁっ、ハイっ」
やべ。なんも聞いてなかった。
――SPが居てくれるって安心感、ていうか拠り所? それあるだけでも違うの。私のこと知ってる人と……振り返ったら『身内が誰かいる』っていう、それだけで私、頑張れたの。
今になってわかる。アイツのあの言葉の意味。
――だからありがとう。私の『メンタル』、護ってくれて。
もっと自然にアイツを振り向かせられて、心の底から笑わすことができたなら。
――私ね、クラスに限ったことじゃないけど、男の子と話すの……その、恥ずかしいの。
少しずつでも俺のこと、アイツが苦手だって思わなくなったなら。
――私は、『敬斗くんがいいんです』!
きっと尊敬だけじゃなくて、もっとこう、近い距離で鴨重紗良を見てもいいなら。
――敬斗くんは、私がどうなっても、平気なの?
「あーもうっ! わーったよ、ウルセーなぁ!」
そう一気に大きく吐き出して、はたと気が付く。
「…………」
「…………」
あれ? 周囲が変に、シンとしているのは、どうしてでしょう。
恐る恐る顔を上げると、うわお、なんと。親父が怒りマックスのすがたで俺を睨み倒しているではありませんか。
「テメー敬斗ぉ、ゴラァ。誰がウルセーってェ? アアン?」
低すぎる声は小さくも凄味があって、うーん怖い怖い!
「ち、違、親父……いや会長。そうじゃなくて、これはその」
慌てふためくももう遅い。親父を、ましてボクシングジムにいる間のこの男を怒らせて、無事で済むわけがない。特に『ボクシングジム会長』としての親父は鬼みたいな男で、つまり今現在きちんと集中してないことがバレた俺は、それなりの大ピンチだったりするわけで。
すう、と空気を吸い込む親父。降ってくるであろう槍のような言葉を受ける覚悟を決める俺。
「テメー今日はKOでの勝ち以外、絶っ対認めてやらねーかんなァ!」
最悪の怒号が俺にぶっ刺さりました。
♡ ◇
三分間の一ラウンドを三回繰り返す『三回戦システム』という、簡易試合形式の今回。俺は今のところ、三ラウンドに達しない内にきっちりKO勝ちで進むことが出来ている。
「チラチラ時計気にしてんじゃあねーぞ、敬斗ォ!」
ゴングが鳴って、一分間のインターバル。
「ぬゎにさっきからよそ見してやがんだ、テメー! 準決勝戦だぞ集中しろ!」
「親父っ、ハァ、俺、決勝まで、やれるかわかんねー、ハァ」
「はーァ? 甘ったれたことぬかすな、きっちり勝て。勝てる相手なンだからよォ!」
水を含んで、バケツへ吐き出す。やっぱり血が混ざってる。まぁ、こんなのいつものことだ。
「もう、ハァ。一二時、過ぎてンだよね」
「だからなんだ」
「俺、早く行かなきゃなんねーとこ、ハァ、あんだよ」
「あん?」
「ハァ、ハァ、もう、始まってっからさ」
「なにが」
「すぐ傍に行ってやんねーと、ダメなんだよ、今日は特に。ハァ」
「…………」
珍しくボロボロにされちまった顔であろうとも、口の中どんだけ切っていようとも、バチバチ殴られたところが鈍く痛かろうとも。
親父は片眉を上げて「鴨重の……」と呟いて、俺の言う「行ってやんねーとダメ」の内容をなんとなく察したらしかった。だが、親父はクンと眉を寄せて、身構える。
「テメーなァ。この試合より大事だっつーのか、その『行ってやんねーとダメなとこ』ってのは」
わかってるくせにわざと訊いてくるなんて。わが親父ながら意地ワリーな。
「あーそーだよ。ハァ、でも、試合が大事じゃねーわけじゃ、ねーよ」
「だったら尚更、行くならきっちり優勝してから行きやがれッ。どっちも死守してこその和泉敬斗だろ」
カァーン、とゴングの音。チクショウ、三回戦目に入っちまった。
でも珍しく、親父にしては良いこと言うなと思ったんだ。