偽物の天才魔女は優しくて意地悪な本物の天才魔法使いに翻弄される

最悪の大会前夜



図書館を出て、オリビアは渡り廊下を走る。すっかり日は落ちていた。ここから覗ける中庭で、噴水が見えて一瞬立ち止まる。もう生徒は皆帰宅しているはずが、止め忘れたのか次々と水が湧き出ていて、まるで今の自分だけのためにあるような錯覚に陥った。

あのニヤつく顔が早く見たいのに、胸がいっぱいで上手く走れないのを、月明かりに照らされてキラキラと光る水の粒に見とれたせいにしたかった。

ふと、向こうから誰かが歩いてきた。コツコツと、ヒールを鳴らす音がする。音は、オリビアに数メートルまで近付き、止まった。振り向くとそこには、黒いスーツに身を包んだ、美しい女性が立っていた。

長い髪をすっきりとまとめ、いつでも凛とした、オリビアの憧れの教師。彼女がハヤトに振られた話を盗み聞きしてしまったあの日以来、勝手に気まずさを感じて話すことが出来なかったけれど、それでも大好きな唯一の理解者。

「マリア先生…」

マリアはオリビアと目を合わせると、優しく微笑んだ。彼女は明日、この学校を去る。

「オリビア、良かった。今日も図書館にいるんじゃないかと思って、仕事帰りに寄る所だったのよ。最後に挨拶しておきたくて」

「先生…!教師をお辞めになるって…」

ええ、とマリアはにこやかに笑った。

「去年、魔法学会から、お声をかけていただいたのよ。魔法使いが使う魔法の根源については、まだ分からないことだらけじゃない?私もずっと論文を出していたら、ぜひうちで、って。だから思い切って、学会の研究施設で働くことにしたの」

以前より魔法学の発展に貢献してきたマリアには、納得の抜擢だ。

「…すごい…!栄転ですね!やっぱりマリア先生は凄いです。おめでとうございます」

手を叩き、オリビアは心から祝福した。しかし一方で、マリアがどんどん遠い存在になってしまうような気がした。

「ありがとう。明日の大会が終わったら、すぐに引っ越さないといけなくて。明日だとバタバタするから、今オリビアと話せて良かったわ」

マリアの目には、寂しさが浮かんでいる。

「私もお話出来て、嬉しいです…………って、あ、あれっ、明日…?大会って…………えっ!?」

オリビアは突然目を丸くし、マリアの目を見て固まった。

「?そうよ。ホウキレースの大会。明日じゃない」

「…忘れてた………!!」

「えぇ!?」

オリビアの顔が青ざめていく。例年、大会は学年末テストの後なのに、今年は順番が入れ替わっている。その話は聞いていたはずなのに、最近はハヤトやレイとの勉強会で頭がいっぱいで、すっかり抜け落ちていたのだ。

「ど、どうしよう……!!全然特訓できてないです……!」

「あらら……。でも、オリビアなら大丈夫。しっかりしているもの。きっと出来るわ。楽しめればいいのよ」

マリアは驚いたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。しかし、オリビアは顔を歪ませる。その目には涙が浮かんでいた。

「……無理ですよ。私には、才能なんて無いんです!今までいつもどんなことでも、直前まで全力で準備し続けてきたから、結果を出してこられたんです。でも、今回は違う。何も出来ていないわ。優勝したいのに、こんなんじゃ、絶対勝てない……!それに、緊張しやすいんです。先生方の期待には応えられない…!」

「……オリビア?」

突然弱気な言葉を並べ出したオリビアを不思議に思い、マリアは彼女の肩に手を置いた。すると、オリビアはせきを切ったようにぽろぽろと泣き出した。

「どうしたの。大会用の特訓はしていなくても、あなたは普段から練習しているじゃないの。それもこっそり。私は知っているわ」

マリアが背中をさすりながら言うと、オリビアは首を横に振る。

「それじゃダメなんです。私は人一倍やらないと、ダメなんです!勉強だって、丸暗記しか出来ない!!こんなの、実力じゃないわ……」

オリビアの心には、図書館でレイに言われた言葉が深く深く突き刺さっていた。マリアを前にし、我慢していた辛い気持ちが溢れ出す。

──自分は、勉強が出来るのではなく、ただ覚えているだけ。だから、ハヤトに届かない。ホウキも、大会用のコースを、それも人一倍練習しないと、きっと10位にすら入れないだろう。レイくんの言ったことは、間違っていない。うすうす感じていたけれど、誰も気付かないで欲しかった。

うつむき、マリアのハイヒールだけが目に入る。綺麗な赤色。今までは辛い事がある度に、ずっとこうして頼ってきた。皆の前では余裕のあるしっかり者でいたくて、冷静そうな振る舞いを続けてきたせいで、いつしか誰にも見せる事の出来なくなっていた弱気な自分。

この靴で歩く音が聞けるのも、こうやって素直に甘えることが出来るのも、今日が最後。

オリビアが下を向き泣いていると頭の上から、声が降ってきた。

「そんなこと、ないわ」

マリアの声色は、とても優しかった。

「暗記の何が悪いの?それが出来なくて苦労している人だっているのよ。それに、暗記だけでは、あの成績は取れない。オリビアの努力には、きちんと力が伴ってきている。ホウキだってそうよ。日頃から頑張ってるあなたが、大会の前だけ練習する人に、負けるはず無いわよ」

ポンポンと、オリビアの肩を叩くマリアの手は、温かかった。

「才能がいくらあったって、生かせない人も大勢いるわ。素質があるかないかなんて、そんなに大事なことじゃないのよ。大丈夫。あなたは私の、自慢の生徒よ。ずっとそう言ってるじゃない」

「マリア先生……」

オリビアは、マリアに抱きついた。マリアは優しく抱きしめ返す。

「マリア先生みたいに、私のことを理解して下さる人がいなくなっちゃうのが、辛いです…寂しいよ……!!」

わんわんと、オリビアは泣いた。マリアも目の端をハンカチで押さえる。

「あなたみたいな子、なかなかいないわ…。一生懸命頑張るあなたが、私は大好きよ…ハヤト君も、同じじゃないかしら」

「……えっ」

オリビアは涙を貼り付けた顔を上げ、マリアを見つめた。マリアが悲しそうに微笑む。

「ふふ、ハヤト君の好きな人って、オリビアなのよね?私、あなたになら負けてもいいって、その時思ったのよ」

「あ…先生…ごめんなさい、私、前…先生がハヤトを好きだってお話……盗み聞きしてしまったんです。それからずっと、話しづらくて…」

「やっぱり。あなた、全然顔出さないんですもの。おかしいと思ったの」

マリアは切ない表情を浮かべながらも、笑顔を絶やさず言った。

「すみません…」

「いいのよ。生徒に気持ちを持ってしまった私が悪いし、今は吹っ切れているから。それよりも…安心しているの。私の他にも、そのままのオリビアを理解してる人がいるんだなって、分かったから。ハヤト君の話を聞いていたら、不思議だけれど、嬉しくなってしまったわ」

オリビアは、黙ってうなずいた。マリアの気遣いが、心に染みる。

「だから…私がいなくても、大丈夫。付き合っているんでしょう?」

「いえ…ずいぶん長いこと、待たせてしまって。やっと、決心ついたんです。でも、ハヤト、何にも分かってなくて。今は何もかもやる気が出ないみたい…これから、お尻を叩きに行くところです」

涙を拭いて、背すじを伸ばす。

「そう。じゃあ、早く行ってあげて。彼はあなたを待ってると思うわ。これからはハヤトくんに支えて貰うのよ」

「はい」

「頑張るのよ。あなたには、自分を偽る必要なんて無いわ」

「はい…先生…!」

オリビアは再び泣きそうになるのをぐっとこらえ、笑顔で答えた。

「ありがとうございます、マリア先生。私、ずっと先生のこと、応援しています」

「私もよ。明日の大会も、思い切り飛ぶのよ」

最後にオリビアは、マリアに手を差し出した。マリアの細長く、暖かい手が、オリビアの手を包んだ。

***

マリアを正門まで見送り、ハヤトの部屋がある宿舎まで向かった。さすがに、もう教室にはいないだろう。

オリビアはそっと、遠慮がちに扉を叩いてみる。反応が無いので、2回、3回と少し強めにノックすると、少ししてから物音が聞こえて、ガチャリとドアが開いた。

「…!オリビア……っ」

ハヤトはオリビアの顔を見ると、驚いて目を見開き、すぐに顔を歪ませた。

「あ…ハヤト。こんな時間にごめんなさい。あの……」

オリビアは、言葉に詰まる。何から話すか決めていなかった。

「ハヤト……部屋、入ってもいい…?話がしたくて」

緊張で震える声を絞り出すように言うと、ハヤトはうなずきかけ─────首を横に振った。

「ごめん、出来ないよ。テストの話だろう。君を入れたら、また傷つけてしまうかもしれない」

「え…それは」

「ごめん。放っておいてくれ」

「待ってよ、ちょっ………」

ハヤトの声は優しいが、オリビアを見ない。そのままドアを、閉められた。まさか拒絶されるとは思っていなかったため、オリビアは呆然と立ち尽くした。

しばらくすると、雨の音が聞こえてきた。サァサァと静かな雨音が、だんだんと強くなってくる。

「……帰ろう」

オリビアは走って、自室へ戻った。雨に濡れた体を拭いて、窓の外を見る。暗い空が広がっている。

何も準備出来ていない。コースの確認もこの雨では難しい。お気に入りのホウキを倉庫から取ってきて手入れする事も、ハヤトと話す事すらも出来なかった。

明日は、1年前のあの空でハヤトと出会った、ホウキレースの大会だ。



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