偽物の天才魔女は優しくて意地悪な本物の天才魔法使いに翻弄される
前だけを
笛の音を合図に、2年生全員の乗るホウキたちが、学校の空を覆い尽くす。レース大会が幕を開けた。
オリビアは空へ飛び立つ。雨で湿った芝生を、足に水が跳ね返るのも気にせず蹴り上げる。ハヤトが自分の言葉に驚いている事を確認し、照れたように笑って前を向いた。
「オリビアっ………本当……?」
ハヤトも一瞬遅れて、空へ舞い上がる。最後尾でスタートしたというのに、スピードを上げてぐんぐんと他の走者たちを追い越していくオリビアを追いかけた。動揺して、思うように体が動かないが、その目に光が宿った。
「ハヤトー!遅いわね!私が勝っちゃうわよー!!」
振り返って挑発するオリビアに、ハヤトもニヤリと笑みを浮かべた。
「…上等だよ」
いつも片手持ちで優雅に飛ぶ彼だが、しっかりと両手で、ホウキの柄を握る。オリビアの背中を見つめて、加速する。
オリビアは前に向き直り、ひたすら真剣に飛んだ。あっという間に500人もの生徒たちの先頭に躍り出た、自分に驚く。これまで緊張しなかった事など無かったが、初めて、手を震わせずにホウキを握る事が出来たからかもしれない。負ける事への不安ではなく、彼に勝ちたいとだけ願う気持ちが、自分に全力を出させたのかもしれない。
マリアの言ったことは本当だった。練習は足りていないと思っていたが、それだけで落ちぶれてしまうほど、オリビアの力はもろいものではなかった。今までの努力の積み重ねが、素質を超えた瞬間であった。才能がなくたって落ち込む必要は無いと、自分で証明した。
コースの半分を過ぎた頃、オリビアの横に、ハヤトが並んだ。ハヤトは彼女を優しく見て言った。
「オリビア…僕もう、手を抜かないよ。君のライバルだから」
そして、オリビアは彼の本気のスピードを初めて見ることになる。突風でも吹いたのかと思うほど、ハヤトは速く、強く、オリビアを越えて前を飛んだ。
「ああっ…」
疲れが見え始めていたオリビアは、嘆きの声をあげた。しかし、その顔はどこか嬉しそうにも見える。負けじとホウキを握りしめ、さらにスピードを上げる。
後ろを飛んでいる大勢の生徒たちは皆、ハヤトとオリビアの追い上げに驚いていた。棄権かと思われた2人が最後尾からやってきて、自分たちなどには目もくれず、2人だけの戦いを繰り広げている。
下から見守る教師たちの中に、この日をもって退職するマリアもいた。2人の最後の勇姿を、切れ長の美しい目に焼き付けて微笑んだ。
オリビアは背中に自分への声援を聞いた。下にいる一般の観客からも、応援を浴びる。
凄い、速い、いいぞいいぞと歓声が沸き上がった。
それは、ハヤトが現れてからはしばらく失くしてしまった、オリビアが今日までずっと聞きたくて聞きたくてたまらなかった、自分への賞賛の言葉の嵐だった。
しかし、オリビアは前だけを見る。息を切らして、汗を流して、それでも笑顔だ。何よりもずっと嬉しい事だった。自分の前にいるべき人が、いてくれる事が。
──色んなところから、私を褒め称える言葉が聞こえる。私のスピードに驚いて、私に注目してくれている。これが欲しくて、私はいつも順位にこだわっていた。
でも、もう必要無い。普通科の代表としてトップクラスに挑む私はもういない。私が見ているのは、ハヤトだけ。私の目の前をゆく、たった1人の天才魔法使いだけ。
私は彼に勝ちたい。でも今は、それ以上に思う。ハヤトに、優勝して欲しい。
どんよりと空を覆っていたはずの雲から、太陽の日差しが降り注いだ。