ひと晩の交わりで初恋の人の子どもを身ごもったら、実は運命の番で超溺愛されてしまいました~オメガバース~
第2章
この世には男女の性だけでなく、第二次性と呼ばれる三種類の性が存在する。
人口の一割にしか満たない、社会的地位の高いエリートしか生まれないという、ヒエラルキーのてっぺんに立つアルファ。
人口の大多数を占める第一次性だけの影響しか受けないベータ。
アルファと同じくらい稀少数だが、最下層に位置するオメガ。
なぜオメガが最下層に位置するかというと、毎月一週間近く不特定多数のアルファに対して発情フェロモンを放ち、子を成すための発情期で誘惑する下卑た性だからだ。
発情期間中、オメガの日常生活はままならない。
ままならいどころか、発情期を抑える薬を飲んでも微量にアルファを誘発するフェロモンが放出されて、まだオメガのうなじを噛んでいない――発情中に身体を重ねながらアルファがオメガのうなじを噛む行為を番うと言い、番ったもの同士を番と呼ぶ――番のいないアルファを引き寄せてしまう恐れがある性なのだ。
そうして望まぬ身体の関係を築き、望まぬ妊娠をしてしまうオメガは昔から少なくない。
だからこそ、番のいないオメガは、発情期に外に出ることは危険とされている。
つまりオメガは発情期にアルファと交わり、その最中にうなじを噛んでもらうことで、確実にエリート遺伝子を持つアルファを身ごもれる特別な性なのだ。
その関係のせいか、世間ではアルファとオメガには「運命の番」という、必ず対が存在するロマンティックな都市伝説があった。
おそらく番のいないオメガが、アルファに必要以上に恐怖心を抱かないようにと、誰かが都市伝説のようなロマンティックな噂を流しただけに過ぎないと私は考えている。
だって、オメガである私を生んだ、私の母は私と同様にオメガだったが、学生時代からの大恋愛の末、第二性別など関係なく、ベータの父と結婚したのだから。
世の風潮としては今も昔も、ベータはベータ同士で結婚するのが当たり前。
アルファは、アルファ同士で結婚、みたいなものがある。
けれど若い二人は、二人のなかで芽生えた愛を信じ、周囲の反対を押し切り結婚した。
世間の暗黙の了解を無視して結婚した二人は、子どもながらに見ても幸せそうで、憧れの夫婦だった。
将来は父のようなパートナーを大切にしてくれ優しいる相手と結婚したい。第二次性なんて関係ない。
温かな家族を持ちたいという願望が芽生えたのは、身近な二人を目の当たりにしていたらごく自然な流れだったといえる。
その願望がとくに強まったのは、私が小学六年生のときに起こったある事件も影響していた。
人口の一割にしか満たない、社会的地位の高いエリートしか生まれないという、ヒエラルキーのてっぺんに立つアルファ。
人口の大多数を占める第一次性だけの影響しか受けないベータ。
アルファと同じくらい稀少数だが、最下層に位置するオメガ。
なぜオメガが最下層に位置するかというと、毎月一週間近く不特定多数のアルファに対して発情フェロモンを放ち、子を成すための発情期で誘惑する下卑た性だからだ。
発情期間中、オメガの日常生活はままならない。
ままならいどころか、発情期を抑える薬を飲んでも微量にアルファを誘発するフェロモンが放出されて、まだオメガのうなじを噛んでいない――発情中に身体を重ねながらアルファがオメガのうなじを噛む行為を番うと言い、番ったもの同士を番と呼ぶ――番のいないアルファを引き寄せてしまう恐れがある性なのだ。
そうして望まぬ身体の関係を築き、望まぬ妊娠をしてしまうオメガは昔から少なくない。
だからこそ、番のいないオメガは、発情期に外に出ることは危険とされている。
つまりオメガは発情期にアルファと交わり、その最中にうなじを噛んでもらうことで、確実にエリート遺伝子を持つアルファを身ごもれる特別な性なのだ。
その関係のせいか、世間ではアルファとオメガには「運命の番」という、必ず対が存在するロマンティックな都市伝説があった。
おそらく番のいないオメガが、アルファに必要以上に恐怖心を抱かないようにと、誰かが都市伝説のようなロマンティックな噂を流しただけに過ぎないと私は考えている。
だって、オメガである私を生んだ、私の母は私と同様にオメガだったが、学生時代からの大恋愛の末、第二性別など関係なく、ベータの父と結婚したのだから。
世の風潮としては今も昔も、ベータはベータ同士で結婚するのが当たり前。
アルファは、アルファ同士で結婚、みたいなものがある。
けれど若い二人は、二人のなかで芽生えた愛を信じ、周囲の反対を押し切り結婚した。
世間の暗黙の了解を無視して結婚した二人は、子どもながらに見ても幸せそうで、憧れの夫婦だった。
将来は父のようなパートナーを大切にしてくれ優しいる相手と結婚したい。第二次性なんて関係ない。
温かな家族を持ちたいという願望が芽生えたのは、身近な二人を目の当たりにしていたらごく自然な流れだったといえる。
その願望がとくに強まったのは、私が小学六年生のときに起こったある事件も影響していた。