スウィート・ギムレット
神楽坂の小道に入った飾らない居酒屋で、懐かしい友人たちと集まる。その気楽な会合で、円はビールをまるでカクテルを味わうように啜りながらなかなか会話に加われないでいた。
了吾がいたからだ。
「世界を渡り歩いた男、さすが了吾!」
そう笑って言ったのは淳子。仲間内で淳ちゃんと言われるまとめ役の彼女が、今夜、円を誘った人物だ。
「英語の成績、俺より悪かったくせになあ」
続けて発言したのは大海。男女分け隔てなく友人の多い、人の輪のなかで中心にいる男。この男が今夜の会に了吾に声かけた人物だ。
「俺はハートで通じ合えるから」
了吾が言って、周囲はどっと笑いがおこる。周りの人を笑顔にする了吾は、大海と同じようにいつも人に囲まれているタイプの人間だった。でも、大海よりもずっと気を遣うタイプだったことも、円は知っていた。
「次、何飲むの?」
そう言って目の前に腰かけて円に声をかけてきたのは、了吾だった。
「ビール好きじゃなかったっけ?レモンサワーがいいんだっけ?」
メニュー表を円に見せながら、了吾は十数年前の学生時代と変わらない調子で聞く。同じ大学のゼミ仲間だった了吾は、円のお酒の好みも知っていてもおかしくないが、当時よく飲んでいたものを覚えられていると、少しだけ調子が狂いそうになる。少しだけ彼と恋人同士だった懐かしい時間がまぶしく見えそうだったから。
了吾と顔を合わせるのは二十三歳のとき以来、実に十五年以上ぶりだった。
「たぶん、そろそろ淳ちゃんが日本酒頼むはずだから、それを一緒に飲むわ」
同じように仲間の嗜好を熟知しているところをアピールして、なんてことない、と言う顔を円はしてみせた。かつてその頬に自分の頬を寄せたことも、唇を重ねたことも、なんてことはない、というように。
「じゃあ、お猪口頼んでおく」
そう言って了吾は立ち上がって淳子のところにメニュー表を見せに行った。それからタイミングよく料理を持って現れた店員の男性に声をかけて、注文を済ませているようだった。
会社員生活で、その気遣いはさらに磨かれたようだった。それでも、見ていて切なくなるような感じは少しもない。人当たりがよくて、親切で、そうやってたくさんの人から愛されて出世したのだろう。品のいいスーツに、ちょっと高そうな腕時計。インドネシア、マレーシア、香港にアメリカでの駐在を終えて帰国したばかりだという了吾の顔には、自信が感じられた。
そしてそんな横顔を見ながら、かつて円が感じた予感…了吾はどこでも生きていけそうな人、と思ったことはやはり正しかったのだと思った。
「まあとりあえず一杯」
しばらくして了吾は日本酒のボトルと小さなお猪口を二つ持って再び円のところへやってきた。他にも七、八人くらいいて、他の誰にところに行ってもいいはずなのに、円のところへ来る了吾の考えていることは、わかるようでわからない。
「ありがとう」
そう言って日本酒の入ったお猪口を受け取ると、了吾はすかさずもう一つに日本酒を注ぎ、乾杯、と手に持ったお猪口を傾けた。
「久しぶり」
「…久しぶり」
「円、いま荻窪住んでるんだって?」
「なんで知ってるの?」
そんな話していないのになぜ、と円はぎょっとした顔を見せる。
「淳ちゃんが言ってたから」
見ると、淳子は日本酒を片手に楽しそうに他のメンバーと話している。その光景は大学生の頃の飲み会と変わらない。そうやって考えてみれば、どこに住んでいるとか、何の仕事をしているとか、何も隠すことのない仲間なのだ。
結婚しているとか、離婚したとか、そういうのも全部。
「俺さ、いま東中野に住んでるんだ。行ってみたい店があるんだけど一緒に行ってくれない?帰り道だしいいでしょ」
了吾の左手の薬指に指輪はない。円もまた、両手どの指にも光るものなどなかった。
「やだ。途中下車めんどうだから」
ぐっと日本酒を飲み干して言い放つと、了吾は笑って言った。
「うわ、断られた。いいじゃん、金曜日だし。もうちょっと飲もう。帰りはタクシーを拾うよ」
いいじゃん、独り身同士。
まるでそう言われているようにもう一杯、了吾に日本酒を注がれる。
口に含むたびに少しずつ気持ちが軽くなる。週末のお酒の威力。加えて懐かしい顔ぶれについ円は返事をした。
「…新宿なら」
「やった!」
円の返事に了吾が揃った歯並びを見せて、目を細めて笑った。大学生の頃、付き合ってよと言ってきた了吾に円が返事をしたときと同じ顔だった。
了吾がいたからだ。
「世界を渡り歩いた男、さすが了吾!」
そう笑って言ったのは淳子。仲間内で淳ちゃんと言われるまとめ役の彼女が、今夜、円を誘った人物だ。
「英語の成績、俺より悪かったくせになあ」
続けて発言したのは大海。男女分け隔てなく友人の多い、人の輪のなかで中心にいる男。この男が今夜の会に了吾に声かけた人物だ。
「俺はハートで通じ合えるから」
了吾が言って、周囲はどっと笑いがおこる。周りの人を笑顔にする了吾は、大海と同じようにいつも人に囲まれているタイプの人間だった。でも、大海よりもずっと気を遣うタイプだったことも、円は知っていた。
「次、何飲むの?」
そう言って目の前に腰かけて円に声をかけてきたのは、了吾だった。
「ビール好きじゃなかったっけ?レモンサワーがいいんだっけ?」
メニュー表を円に見せながら、了吾は十数年前の学生時代と変わらない調子で聞く。同じ大学のゼミ仲間だった了吾は、円のお酒の好みも知っていてもおかしくないが、当時よく飲んでいたものを覚えられていると、少しだけ調子が狂いそうになる。少しだけ彼と恋人同士だった懐かしい時間がまぶしく見えそうだったから。
了吾と顔を合わせるのは二十三歳のとき以来、実に十五年以上ぶりだった。
「たぶん、そろそろ淳ちゃんが日本酒頼むはずだから、それを一緒に飲むわ」
同じように仲間の嗜好を熟知しているところをアピールして、なんてことない、と言う顔を円はしてみせた。かつてその頬に自分の頬を寄せたことも、唇を重ねたことも、なんてことはない、というように。
「じゃあ、お猪口頼んでおく」
そう言って了吾は立ち上がって淳子のところにメニュー表を見せに行った。それからタイミングよく料理を持って現れた店員の男性に声をかけて、注文を済ませているようだった。
会社員生活で、その気遣いはさらに磨かれたようだった。それでも、見ていて切なくなるような感じは少しもない。人当たりがよくて、親切で、そうやってたくさんの人から愛されて出世したのだろう。品のいいスーツに、ちょっと高そうな腕時計。インドネシア、マレーシア、香港にアメリカでの駐在を終えて帰国したばかりだという了吾の顔には、自信が感じられた。
そしてそんな横顔を見ながら、かつて円が感じた予感…了吾はどこでも生きていけそうな人、と思ったことはやはり正しかったのだと思った。
「まあとりあえず一杯」
しばらくして了吾は日本酒のボトルと小さなお猪口を二つ持って再び円のところへやってきた。他にも七、八人くらいいて、他の誰にところに行ってもいいはずなのに、円のところへ来る了吾の考えていることは、わかるようでわからない。
「ありがとう」
そう言って日本酒の入ったお猪口を受け取ると、了吾はすかさずもう一つに日本酒を注ぎ、乾杯、と手に持ったお猪口を傾けた。
「久しぶり」
「…久しぶり」
「円、いま荻窪住んでるんだって?」
「なんで知ってるの?」
そんな話していないのになぜ、と円はぎょっとした顔を見せる。
「淳ちゃんが言ってたから」
見ると、淳子は日本酒を片手に楽しそうに他のメンバーと話している。その光景は大学生の頃の飲み会と変わらない。そうやって考えてみれば、どこに住んでいるとか、何の仕事をしているとか、何も隠すことのない仲間なのだ。
結婚しているとか、離婚したとか、そういうのも全部。
「俺さ、いま東中野に住んでるんだ。行ってみたい店があるんだけど一緒に行ってくれない?帰り道だしいいでしょ」
了吾の左手の薬指に指輪はない。円もまた、両手どの指にも光るものなどなかった。
「やだ。途中下車めんどうだから」
ぐっと日本酒を飲み干して言い放つと、了吾は笑って言った。
「うわ、断られた。いいじゃん、金曜日だし。もうちょっと飲もう。帰りはタクシーを拾うよ」
いいじゃん、独り身同士。
まるでそう言われているようにもう一杯、了吾に日本酒を注がれる。
口に含むたびに少しずつ気持ちが軽くなる。週末のお酒の威力。加えて懐かしい顔ぶれについ円は返事をした。
「…新宿なら」
「やった!」
円の返事に了吾が揃った歯並びを見せて、目を細めて笑った。大学生の頃、付き合ってよと言ってきた了吾に円が返事をしたときと同じ顔だった。
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