スウィート・ギムレット
ほんの一時間前にした約束通り、西新宿のバーに入りカウンター端の席に並んで腰かけると円は言った。いつもそうするように、迷いなんかないように。
「ジンライムを」
懐かしい了吾。それでもこの瞬間に後悔も逡巡もいらなかった。彼の目にどう映りたいかも特にないのだから。
「じゃあ俺もそれで」
子どもが言うように了吾は明るい声で言った。まだ自分のスタイルなど確立していない青年のような横顔をしていた。もっとも、いつだって了吾はそういう顔つきだったかもしれないが。
「やだ、真似しないでよ。すみません、私のはギムレットにしてください。」
「迷惑な客だな。同じの2つでいいじゃん」
「嫌よ、お揃いなんて」
「中身同じじゃん」
ジンライムとギムレットはどちらもジンとライムジュースで作るが、シェイクするかしないかで違うカクテルになる。ただギムレットのほうがシロップで甘みをつけられることが多い。どちらも爽やかで飲みやすいカクテルだが、やはり違う。
同じ材料だって、ほんの少し手が加わるだけで違うものになってしまう。
「違うわよ」
言いながら、円は今ここにいるお互いが、昔のお互いと違うことを確認しておきたかった。並んでお揃いのカクテルなんて飲んで、仲良し気分なんて味わいたくない。それぞれ違う人生を持つ大人だ。かつて一緒に並んで講義を受け、学食でランチを食べていた昔とはもう違うのだから。
若干騒がしい二人のやりとりを聞きながら、カウンター越しの同年代と思しきバーテンダーの男性は笑っていいですよと手間をかけてジンライムとギムレットを一つずつ用意してくれた。
「よく一人で飲むの?」
「なんで?」
「いや、よく来てるっぽいから。」
「了吾こそ、この歳まで生きていれば一人で飲むことくらいあるでしょ。それと同じよ。」
「そうかなあ。俺の知らない間に円はずいぶん飲兵衛になったんだと思ったよ」
「変わらないわよ」
言いながら、その言葉が昔の自分を覚えていて欲しいみたいに聞こえて円は妙な気持ちになる。
「にしても、思いがけず面白かった。大海と淳ちゃんに感謝だなー。俺が誘っても会ってくれなかっただろうし」
了吾の言う、会ってくれなかったという響きは、少しだけ寂しさを含んでいた。
確かに了吾から直接連絡をもらっても、わざわざスケジュールを調整して会うようなことはなかっただろう。
わざわざ避けたいとかではないけれど、わざわざ二人で会いたい理由もなかった。
ただ淳子から誘われて、大海たちと集まれる人で飲みに行こうと言う話に声をかけてもらって、季節も過ごしやすくなってきていて、仕事もひと段落してちょうどいいタイミングであったのは事実だった。
「別に了吾と会って今さらわざわざ話すこともないし」
「冷たいなあ。いいじゃん、せっかくお互い東京にいるんだし。一人で退屈なときとか。声かけあって食事ぐらいしたって。」
「私だってデートする相手くらいいるわ」
そう言いながらも、本当に決まった相手がいるわけでもない現状にかっこつけたみたいに思えて、誤魔化すみたいにぐっとカクテルを口に含む。
甘いギムレットだった。
しまった、と思った。もっと軽く飲み干したかったのに、思ったより味わってしまいそうな甘さが、逆三角形のグラスにたっぷりと注がれていた。すっきりとした味わいながら口の中に残る甘い余韻。一人で過ごす夜ならそれも悪くないけれど今夜はちょっと気分ではない。そのときだった。
「ギムレットには早すぎる、だっけ」
了吾が唐突に言った。
「有名なセリフだよな。ただそれだけ知っている。誰のセリフだとか、どういう場面のどういう意味があるとか何も知らないけど」
言いながら、了吾は同じ材料で作られたジンライムを喉に通した。同じジンとライムジュースで作られているのに、それは自分が飲んでいるものよりもずっと澄ましていて、余裕があって、かっこよくて、添えられたライムの三日月の鮮やかな緑はとてもクールだった。グラスを持つ手の骨ばった感じも、お酒を飲むときの力の抜けた肩から手首のラインも、それによく似合っていた。
目が合うと、そのひとつひとつを見ていたことを知られたくなくて円はすぐに自分の手元のカクテルに視線を落として、そして言った。
「レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』っていう小説ね。小説の中でギムレットは友情の証であり、さようならの意味もあったのよ。そのギムレットを一緒に飲むっていうのはさようならの意味もあったから、さようならまだ早いっていう感じ。確か」
さようならにはまだ早い。
「さようならにはまだ早い」
円のさようならをまるでモノマネする鳥か何かのように了吾は繰り返す。
「ジンライムを」
懐かしい了吾。それでもこの瞬間に後悔も逡巡もいらなかった。彼の目にどう映りたいかも特にないのだから。
「じゃあ俺もそれで」
子どもが言うように了吾は明るい声で言った。まだ自分のスタイルなど確立していない青年のような横顔をしていた。もっとも、いつだって了吾はそういう顔つきだったかもしれないが。
「やだ、真似しないでよ。すみません、私のはギムレットにしてください。」
「迷惑な客だな。同じの2つでいいじゃん」
「嫌よ、お揃いなんて」
「中身同じじゃん」
ジンライムとギムレットはどちらもジンとライムジュースで作るが、シェイクするかしないかで違うカクテルになる。ただギムレットのほうがシロップで甘みをつけられることが多い。どちらも爽やかで飲みやすいカクテルだが、やはり違う。
同じ材料だって、ほんの少し手が加わるだけで違うものになってしまう。
「違うわよ」
言いながら、円は今ここにいるお互いが、昔のお互いと違うことを確認しておきたかった。並んでお揃いのカクテルなんて飲んで、仲良し気分なんて味わいたくない。それぞれ違う人生を持つ大人だ。かつて一緒に並んで講義を受け、学食でランチを食べていた昔とはもう違うのだから。
若干騒がしい二人のやりとりを聞きながら、カウンター越しの同年代と思しきバーテンダーの男性は笑っていいですよと手間をかけてジンライムとギムレットを一つずつ用意してくれた。
「よく一人で飲むの?」
「なんで?」
「いや、よく来てるっぽいから。」
「了吾こそ、この歳まで生きていれば一人で飲むことくらいあるでしょ。それと同じよ。」
「そうかなあ。俺の知らない間に円はずいぶん飲兵衛になったんだと思ったよ」
「変わらないわよ」
言いながら、その言葉が昔の自分を覚えていて欲しいみたいに聞こえて円は妙な気持ちになる。
「にしても、思いがけず面白かった。大海と淳ちゃんに感謝だなー。俺が誘っても会ってくれなかっただろうし」
了吾の言う、会ってくれなかったという響きは、少しだけ寂しさを含んでいた。
確かに了吾から直接連絡をもらっても、わざわざスケジュールを調整して会うようなことはなかっただろう。
わざわざ避けたいとかではないけれど、わざわざ二人で会いたい理由もなかった。
ただ淳子から誘われて、大海たちと集まれる人で飲みに行こうと言う話に声をかけてもらって、季節も過ごしやすくなってきていて、仕事もひと段落してちょうどいいタイミングであったのは事実だった。
「別に了吾と会って今さらわざわざ話すこともないし」
「冷たいなあ。いいじゃん、せっかくお互い東京にいるんだし。一人で退屈なときとか。声かけあって食事ぐらいしたって。」
「私だってデートする相手くらいいるわ」
そう言いながらも、本当に決まった相手がいるわけでもない現状にかっこつけたみたいに思えて、誤魔化すみたいにぐっとカクテルを口に含む。
甘いギムレットだった。
しまった、と思った。もっと軽く飲み干したかったのに、思ったより味わってしまいそうな甘さが、逆三角形のグラスにたっぷりと注がれていた。すっきりとした味わいながら口の中に残る甘い余韻。一人で過ごす夜ならそれも悪くないけれど今夜はちょっと気分ではない。そのときだった。
「ギムレットには早すぎる、だっけ」
了吾が唐突に言った。
「有名なセリフだよな。ただそれだけ知っている。誰のセリフだとか、どういう場面のどういう意味があるとか何も知らないけど」
言いながら、了吾は同じ材料で作られたジンライムを喉に通した。同じジンとライムジュースで作られているのに、それは自分が飲んでいるものよりもずっと澄ましていて、余裕があって、かっこよくて、添えられたライムの三日月の鮮やかな緑はとてもクールだった。グラスを持つ手の骨ばった感じも、お酒を飲むときの力の抜けた肩から手首のラインも、それによく似合っていた。
目が合うと、そのひとつひとつを見ていたことを知られたくなくて円はすぐに自分の手元のカクテルに視線を落として、そして言った。
「レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』っていう小説ね。小説の中でギムレットは友情の証であり、さようならの意味もあったのよ。そのギムレットを一緒に飲むっていうのはさようならの意味もあったから、さようならまだ早いっていう感じ。確か」
さようならにはまだ早い。
「さようならにはまだ早い」
円のさようならをまるでモノマネする鳥か何かのように了吾は繰り返す。