前奏曲にしては重すぎる執着愛でした
連休前の金曜日。その日は「よりによって」が重なる日だった。

毎度やらかした懲りない後輩を窘めているところを、本部からの視察担当者が「よりによって」事情を知らない新任者だったために、パワハラかと勘違いされて目をつけられた。
体調を崩しているというのに「よりによって」常備薬を入れたピルケースが見当たらない。
早上がり申請は通ったはずなのに「よりによって」他部署で欠員が出たために、そちらの分まで締め作業に駆り出される始末。
こうなりゃヤケだ、の勢いで必死に捌いていると何とかなってしまい、結果、更に仕事を押しつけられる悪循環に陥っていた。

小日向(こひなた)さん、顔色悪い。こっちやっておくから帰りなよ」
「え、でも先輩もまだ……」

操作中の端末を横からひょいと取り上げられて、見上げた先には先輩がいた。
見返り無しに助け舟を出してくれる性格ではないところが、手放しで喜べない理由だ。

「お礼に週明け、大通りに出来た店のエスニック料理奢って。人の金でパクチーをわしわし食べたい」
「えええ……」

案の定、これか。パクチー苦手なんだよね。好きな人には申し訳ないけれど、あの匂いはどうも受けつけない。
先輩の申し出は有難いけど、親切の押し売りをされた挙句に出費が約束されたのは、心にも給料日前の懐にも痛かった。

無碍にもできず、キリのいいところで作業を終わらせてタイムカードを打刻する。
小日向律(こひなたりつ)、と自分の名前が印字されたマスが網掛けされて暗くなった。
申請時間より遅い退社なのに周りじゅうに謝罪するかのようにぺこぺこと頭を下げるのは釈然としないけれど、仕方の無いことだと割り切るしかない。

頭を上げた時、先程注意した後輩がケラケラとお喋りしているのが目に止まった。完璧に手が止まっている。
だから締め作業がギリギリになって数字にズレが出るのに。

先輩、帳尻合わせ頑張って下さいね。

心の中で小さく舌を出して裏口の非常階段を下っていると、頭の芯がゆっくりかき混ぜられるような感覚に慌てて手すりを掴む。

あ、コレはまずいやつだ。

連休はひたすら回復に務めるしかないか、と小さく溜息をついてゆっくり階段を降り切った。
袖口をずらして腕時計を見る。
この体調だといつもの電車は見送らざるを得ないか……と計算していると、文字盤に水滴が落ちた。

「え」

ぽつぽつと続いて落ちる雫に文字盤のローマ数字が覆われていく。盤面に描かれた五線譜が透明な音符に割り込まれて、頭の中のメロディが破綻する。
数年前に一目惚れして奮発した、お気に入りのブランドの時計なのだ。さっと指の腹で拭って空を見上げた。

「よりによって、雨……!」

よりによって、もここまで来ると笑えない。
ぐぬうという顔文字、そのままの表情をしている自覚はある。
折り畳み傘はバッグの底にあったはず……とごそごそ探していると、不意に駆けてきた何かに肩をどん、と突き飛ばされる。
何とか転ばずに踏みとどまったものの、バッグを中途半端に開けていたせいでポーチやマイボトルが飛び出して、水たまりを作り始めた地面に転がる。

「うそっ」

厄日にも程がある。慌てて足元のポーチを拾って汚れを払っていると、勢いよく転がっていったマイボトルは数歩先で誰かにキャッチされた。

「すんませんっ」

ぶつかってきた人らしい。
一応謝る気があったのか、と顔を上げると──ピンク色の髪が飛び込んできた。

若い。大学生? 気崩れたスーツってことはホストのバイト?
それにしても頭がピンクか……

自分とは関わりのないタイプの人間を見てしまうと、どうにも口を開けて凝視してしまう。
「おねーさん?」と声をかけられて我に返れば、ピンク頭の彼がマイボトルを差し出していた。

「えっと、あ、すみません。ありがとうございます……」

受け取ったマイボトルをタオルで拭ってバッグに戻す。会釈してそのまま駅に向かおうとすると、ピンク頭が立ちはだかるようにまだ目の前にいた。

「ん〜」
「……え?」

不躾、という表現がここまでぴったりな仕草もないのでは? と言いたくなるレベルで、彼は眉間に皺を寄せて私をじろじろと眺めてくる。

「あれ? もしかしてアタリ? あー……でも違ったらめんどくせぇしなあ」
「あ、あの……?」

訳の分からない独り言を呟きながら周りをうろつかれては危機感しかない。両手でバッグを抱きかかえるようにして後ずさる。
すると私の手首を見てピンク頭は目を見開いた。

「そうだ時計だ!」
「時計?」
「あーなんでもないっ、あの、おねーさん、今何時です?」

へらりと笑ってみせた顔は幼い。けれど、この状況ではその笑顔は何ひとつ安心材料にはなりはしない。
腕時計をつけていない方の手でバッグをしっかり抱えてガードしながら、もう片方の手首を反らせて盤面を見せる。
自分で盤面を見なかったのは、彼から目を離した一瞬に何をされるかわからなかったからだ。

「……もういいですか?」

ぽかんと口を開けて盤面を眺めているピンク頭から遠ざかろうとした時、もの凄い勢いで手首を掴まれた。

「ひっ」
「アタリだ! オレすげぇ!」
「や、っ」

パニックになって腕を引き抜こうとしてもびくともしない。咄嗟のことで喉が詰まって声も出ない。

「ちょ、おねーさん、オレ別に変なことしねーから! ほらこの懐中時計! これと同じの持ってるオンナ探せって──」

私の手を掴んだまま、ピンク頭はスーツのポケットに手を突っ込む。
視線が逸れたことで力が緩んだ。
力任せに振り払った手が彼がポケットから出した手に当たって──

「っ!」

バチッと硬い音。
手の甲に走る痛み。

彼の手元から何か光るものが放物線を描いて──何処かへ消えた。
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