前奏曲にしては重すぎる執着愛でした
「うおわっ!!」
そこで走って逃げれば良かった──今となってはそう思う。
しかし、目眩がしたせいなのか、足が竦んでしまったのか。ご丁寧なことに、私は突っ立ったまま彼とその放物線を見送ってしまったのだ。
視界の彼方でカシャン、と聞こえた金属音に、ピンク頭が色を無くして見えたのは幻覚では無いだろう。
「やっべえ! ちょ、おねーさん、探して!」
「え、ええ!?」
あんなに必死に振り払った手首をいとも簡単にまた掴まれて、落下音がした辺りにまで連れて行かれる。
「や、もう、なんなの……」
「懐中時計っすよ、懐中時計!」
そんな答えは聞いていない。けれどピンク頭はの彼は、私が単純に何を落としたのかわからないと見て説明を加え出した。
「あ、おねーさん懐中時計わかる? こんくらいの丸い時計で、チェーンついてるんすよ。オシャレっていうか古臭いっつか……あーこれオフレコ! ねっ、頼んます」
自慢じゃないけど懐中時計くらい知っている。
だというのに、柱時計を説明するかのような大きなジェスチャーを見せられて、逆に混乱してきた。
本当に懐中時計がわかっているのか疑わしいのはピンク頭の方だろう。
それにオフレコと言われても誰に対してなのか。何も詳しいことがわからないままだ。
「あの、懐中時計が何なのかはわかります。多分この辺りに落ちてると思うんですけど……」
そこで言葉を切って周囲を見渡す。
近くで道路の拡張工事が行われているらしく、機材やら重機やらの置き場をフェンスで囲ってあった。
この中に落ちていたら拾いようもない。
「っあー! ダメかあ!!」
彼は両手で頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜては天を仰ぐ。かと思えばたちまちうずくまってしまった。
ここで放り出すこともできず、あたふたしている内に雨足が強くなってくる。
とりあえずもう一度バッグを開けて折り畳み傘を取り出し、自分と彼の間に差した。
「うう、おねーさん優しい」
「雨もひどくなりそうですし、いったん帰って後日改めては」
「や、見つけるまで帰るなって言われてるんで。でもこの辺サツがうろちょろしてっからシャレになんねーし……引き上げるのもテかなあ……んでも落とし前つけさせられんのもゴメンだしなあ……」
お手上げとでも言うようにひらひらと手のひらを揺らされる。
──サツって。それに落とし前って。
もしかして、ホストではなくてもっと治安の悪いご職業かもしれない。ヤンキー? チンピラ?
ひと昔前に流行った学園モノのドラマでは、こんな風に派手に髪を染めた若手の俳優さん達は、青春は殴り合いだと言わんばかりに猫も杓子もケンカばかりさせられていたっけ。
「でもこのままだと貴方も風邪引きますよ。私も正直言って体調良くないので、ここは解散しましょう」
「うー……そっすか。何て説明するかなあ……」
そう答えながらきょろきょろ探されて、会話を続けざるを得なくなってしまう。
どうしよう。ここで見捨てて帰るのってアリ?
「そだ。おねーさんにも説明しときますね。あの懐中時計、シルバーで結構ずっしりくる重さなんす。あ、チェーンもシルバーね」
「えっ、ああ、はい」
「表面はシマシマっす。あ、黒い丸もいくつかあったな」
だめだ。完璧に懐中時計探しの頭数に入れられている。適当なところで切り上げるしかないか、と逃げやすいように彼が背中を向けた瞬間を見計らって距離を取りつつ探すふりをしていると、喉の奥が詰まる感覚がする。
傘がやけに重く感じる。
やだもう、早く帰って休みたい。
私達を邪魔そうに避けながら歩いていく人達は家路を急げるのに、どうしてよりによって今日はこんなにツイてないんだろう。
息が上がる。喉が渇く。
目がチカチカしてきた。
工事現場のフェンスに手をついて息を整える。目の端にまた光ったのは貧血のせいの幻覚ではなくて──
「シルバーの、チェーン」
「えっ」
ピンク頭が飛び跳ねて寄ってくる。
フリスビーを投げられた犬みたいだな、と思いながらフェンスの向こう側に光るそれを指させば、今日の工事が終わって作業員がいないのをいいことにフェンスを乗り越えて入って行った。
もういいや、通りすがりの巻き込まれの義理は果たした。あれが懐中時計であろうがなかろうがどうでもいい。
早く帰って横になりたい。
なのに──
「う……」
立っていられなくてずるずるとしゃがみ込む。傘を持つ指に力が入らなくてかたかた震える。寒い。
「ヤッバ、アタリだ、すげぇ! さんきゅーおねーさん! ほらこれっすよ!」
身軽なピンク頭はもう「取ってこい」ができたのか、ずいと眼前に押し付けられたものを薄目で見れば、何処かで見た柄の時計だった。正直言ってもうシマシマだろうが水玉だろうが何でもいい。
「……そ、よかったね。わたし、も、かえる……」
「……ってアレ、おねーさん、どしたっすか!? ヤバそう? てかヤバいじゃん! ヤッベ、どーすんだよ……」
ヤバい、しか言えないのかこの子は。もっと語彙力増やさないと肝心な時に困るんだよ。例えば今とか、ね!
そう背中のひとつでも蹴り飛ばしてやりたいのに体は動かない。
あ、ほんとにヤバいかも。いやだ、私もピンク頭と大差ないなんて、そんな……
遠くで車のブレーキ音がする。
私の腕を掴んで立ち上がらせようとしていたピンク頭が「ひっ」と声を上げた。
明らかにこちらへと近づいてくる足音は硬く、ぼんやりとした頭にも良く響いた。
「……何をしている」
低く、なめらかな声だった。
「ああああの、違うんす、オレが手ぇ出したワケじゃなくて、おねーさん、なんか具合悪いっぽくて」
「傷ひとつつけるなと言った筈だが?」
「や、傷なんてつけてないですって! ちゃんとおねーさんの腕時計も見て確認しましたから! ちょっと驚かれて怖がらせちまったけど……あっ」
立て板に水の如く並ぶピンク頭の言い訳は、聞き慣れない鈍い音と共にぶつりと中途半端に捻じ切られた。
腕が離されて軽くなる。「うぎゃっ」という悲鳴と、何かが擦れる音が数メートル先で聞こえた。
もしかしなくても、これは危ない状況なのでは?
なんとかこの場から逃げ出したい一心で傘を傾けて見上げると──
スーツを濡らした美丈夫が、こちらを見下ろしていた。
「小日向律さん、だな。連れが失礼した」
「え、ああ……いいえ……」
どうして私の名前を知っているのだろう。
霞む視界でも判別できるくらい整った顔立ちが私を見つめている。
鷹のような鋭い目つきは、映るものを皆、萎縮させるだろう。
シラフならきっと私も泣いて逃げ出しただろうに、よりによって直前までピンク頭と会話していたからか、髪が黒いというだけで安心感を覚えて力が抜けてしまった。
傾いた傘をうまく持ち直せずにいると、膝をついた彼が私の手から取り去った。畳んでまとめると腕に掛ける。
いくら折り畳みとはいえ婦人物の傘がひどく小さく見えるくらい、がっしりした体格なのだとぼうっと見つめていると、そっと額に手を当てられた。
「……?」
冷たくて、少しかさついた皮膚。
前髪を軽く直しながら離れたそれにもっと触れて欲しいと思ってしまったのは、その温度のせいだろうか。
「すまない、遅くなった」
何の謝罪だろう。考えがまとまらないまま、太い腕を背中に感じて体が浮く感覚がする。
さっきピンク頭に腕を支えられた時よりずっと力強い。
一定の間隔で体が揺れる。
それでも頭を持たせかけてくれたからか、気分が悪くなるような振動ではなかった。
「──モモ、何を呆けている。歩いて帰るつもりか?」
「ひえっ、あ、乗せてくれるんすか!?」
「彼女に免じてだ。早くしろ」
頭の上で交わされるやりとりに混じってドアの開閉音がお腹に響く。
雨音がくぐもった。
「……様、そちらは」
「話は帰ってからだ──出せ」
押し殺した低い声が命じるままに、僅かな振動と共に景色が水平に流れていく。
……待って?
知らないひとの車に乗せられてる?
なんとか身を起こそうと藻掻いてみるものの、腕ごと抱きすくめられて後部座席に横たわらされた。まずい状況にも関わらず、休息を欲している体がこの体勢を享受し始めている。
「眠るといい。悪いようにはしない」
お話の中みたいな言葉だ。
創りごとめいた状況に意識が吸い取られていく。
後頭部に感じる固いものは、もしや彼の膝枕なのかもしれない。
それがいったいどういうことか考える前に、車の振動に任せて意識がとろりと沈んでいった。
そこで走って逃げれば良かった──今となってはそう思う。
しかし、目眩がしたせいなのか、足が竦んでしまったのか。ご丁寧なことに、私は突っ立ったまま彼とその放物線を見送ってしまったのだ。
視界の彼方でカシャン、と聞こえた金属音に、ピンク頭が色を無くして見えたのは幻覚では無いだろう。
「やっべえ! ちょ、おねーさん、探して!」
「え、ええ!?」
あんなに必死に振り払った手首をいとも簡単にまた掴まれて、落下音がした辺りにまで連れて行かれる。
「や、もう、なんなの……」
「懐中時計っすよ、懐中時計!」
そんな答えは聞いていない。けれどピンク頭はの彼は、私が単純に何を落としたのかわからないと見て説明を加え出した。
「あ、おねーさん懐中時計わかる? こんくらいの丸い時計で、チェーンついてるんすよ。オシャレっていうか古臭いっつか……あーこれオフレコ! ねっ、頼んます」
自慢じゃないけど懐中時計くらい知っている。
だというのに、柱時計を説明するかのような大きなジェスチャーを見せられて、逆に混乱してきた。
本当に懐中時計がわかっているのか疑わしいのはピンク頭の方だろう。
それにオフレコと言われても誰に対してなのか。何も詳しいことがわからないままだ。
「あの、懐中時計が何なのかはわかります。多分この辺りに落ちてると思うんですけど……」
そこで言葉を切って周囲を見渡す。
近くで道路の拡張工事が行われているらしく、機材やら重機やらの置き場をフェンスで囲ってあった。
この中に落ちていたら拾いようもない。
「っあー! ダメかあ!!」
彼は両手で頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜては天を仰ぐ。かと思えばたちまちうずくまってしまった。
ここで放り出すこともできず、あたふたしている内に雨足が強くなってくる。
とりあえずもう一度バッグを開けて折り畳み傘を取り出し、自分と彼の間に差した。
「うう、おねーさん優しい」
「雨もひどくなりそうですし、いったん帰って後日改めては」
「や、見つけるまで帰るなって言われてるんで。でもこの辺サツがうろちょろしてっからシャレになんねーし……引き上げるのもテかなあ……んでも落とし前つけさせられんのもゴメンだしなあ……」
お手上げとでも言うようにひらひらと手のひらを揺らされる。
──サツって。それに落とし前って。
もしかして、ホストではなくてもっと治安の悪いご職業かもしれない。ヤンキー? チンピラ?
ひと昔前に流行った学園モノのドラマでは、こんな風に派手に髪を染めた若手の俳優さん達は、青春は殴り合いだと言わんばかりに猫も杓子もケンカばかりさせられていたっけ。
「でもこのままだと貴方も風邪引きますよ。私も正直言って体調良くないので、ここは解散しましょう」
「うー……そっすか。何て説明するかなあ……」
そう答えながらきょろきょろ探されて、会話を続けざるを得なくなってしまう。
どうしよう。ここで見捨てて帰るのってアリ?
「そだ。おねーさんにも説明しときますね。あの懐中時計、シルバーで結構ずっしりくる重さなんす。あ、チェーンもシルバーね」
「えっ、ああ、はい」
「表面はシマシマっす。あ、黒い丸もいくつかあったな」
だめだ。完璧に懐中時計探しの頭数に入れられている。適当なところで切り上げるしかないか、と逃げやすいように彼が背中を向けた瞬間を見計らって距離を取りつつ探すふりをしていると、喉の奥が詰まる感覚がする。
傘がやけに重く感じる。
やだもう、早く帰って休みたい。
私達を邪魔そうに避けながら歩いていく人達は家路を急げるのに、どうしてよりによって今日はこんなにツイてないんだろう。
息が上がる。喉が渇く。
目がチカチカしてきた。
工事現場のフェンスに手をついて息を整える。目の端にまた光ったのは貧血のせいの幻覚ではなくて──
「シルバーの、チェーン」
「えっ」
ピンク頭が飛び跳ねて寄ってくる。
フリスビーを投げられた犬みたいだな、と思いながらフェンスの向こう側に光るそれを指させば、今日の工事が終わって作業員がいないのをいいことにフェンスを乗り越えて入って行った。
もういいや、通りすがりの巻き込まれの義理は果たした。あれが懐中時計であろうがなかろうがどうでもいい。
早く帰って横になりたい。
なのに──
「う……」
立っていられなくてずるずるとしゃがみ込む。傘を持つ指に力が入らなくてかたかた震える。寒い。
「ヤッバ、アタリだ、すげぇ! さんきゅーおねーさん! ほらこれっすよ!」
身軽なピンク頭はもう「取ってこい」ができたのか、ずいと眼前に押し付けられたものを薄目で見れば、何処かで見た柄の時計だった。正直言ってもうシマシマだろうが水玉だろうが何でもいい。
「……そ、よかったね。わたし、も、かえる……」
「……ってアレ、おねーさん、どしたっすか!? ヤバそう? てかヤバいじゃん! ヤッベ、どーすんだよ……」
ヤバい、しか言えないのかこの子は。もっと語彙力増やさないと肝心な時に困るんだよ。例えば今とか、ね!
そう背中のひとつでも蹴り飛ばしてやりたいのに体は動かない。
あ、ほんとにヤバいかも。いやだ、私もピンク頭と大差ないなんて、そんな……
遠くで車のブレーキ音がする。
私の腕を掴んで立ち上がらせようとしていたピンク頭が「ひっ」と声を上げた。
明らかにこちらへと近づいてくる足音は硬く、ぼんやりとした頭にも良く響いた。
「……何をしている」
低く、なめらかな声だった。
「ああああの、違うんす、オレが手ぇ出したワケじゃなくて、おねーさん、なんか具合悪いっぽくて」
「傷ひとつつけるなと言った筈だが?」
「や、傷なんてつけてないですって! ちゃんとおねーさんの腕時計も見て確認しましたから! ちょっと驚かれて怖がらせちまったけど……あっ」
立て板に水の如く並ぶピンク頭の言い訳は、聞き慣れない鈍い音と共にぶつりと中途半端に捻じ切られた。
腕が離されて軽くなる。「うぎゃっ」という悲鳴と、何かが擦れる音が数メートル先で聞こえた。
もしかしなくても、これは危ない状況なのでは?
なんとかこの場から逃げ出したい一心で傘を傾けて見上げると──
スーツを濡らした美丈夫が、こちらを見下ろしていた。
「小日向律さん、だな。連れが失礼した」
「え、ああ……いいえ……」
どうして私の名前を知っているのだろう。
霞む視界でも判別できるくらい整った顔立ちが私を見つめている。
鷹のような鋭い目つきは、映るものを皆、萎縮させるだろう。
シラフならきっと私も泣いて逃げ出しただろうに、よりによって直前までピンク頭と会話していたからか、髪が黒いというだけで安心感を覚えて力が抜けてしまった。
傾いた傘をうまく持ち直せずにいると、膝をついた彼が私の手から取り去った。畳んでまとめると腕に掛ける。
いくら折り畳みとはいえ婦人物の傘がひどく小さく見えるくらい、がっしりした体格なのだとぼうっと見つめていると、そっと額に手を当てられた。
「……?」
冷たくて、少しかさついた皮膚。
前髪を軽く直しながら離れたそれにもっと触れて欲しいと思ってしまったのは、その温度のせいだろうか。
「すまない、遅くなった」
何の謝罪だろう。考えがまとまらないまま、太い腕を背中に感じて体が浮く感覚がする。
さっきピンク頭に腕を支えられた時よりずっと力強い。
一定の間隔で体が揺れる。
それでも頭を持たせかけてくれたからか、気分が悪くなるような振動ではなかった。
「──モモ、何を呆けている。歩いて帰るつもりか?」
「ひえっ、あ、乗せてくれるんすか!?」
「彼女に免じてだ。早くしろ」
頭の上で交わされるやりとりに混じってドアの開閉音がお腹に響く。
雨音がくぐもった。
「……様、そちらは」
「話は帰ってからだ──出せ」
押し殺した低い声が命じるままに、僅かな振動と共に景色が水平に流れていく。
……待って?
知らないひとの車に乗せられてる?
なんとか身を起こそうと藻掻いてみるものの、腕ごと抱きすくめられて後部座席に横たわらされた。まずい状況にも関わらず、休息を欲している体がこの体勢を享受し始めている。
「眠るといい。悪いようにはしない」
お話の中みたいな言葉だ。
創りごとめいた状況に意識が吸い取られていく。
後頭部に感じる固いものは、もしや彼の膝枕なのかもしれない。
それがいったいどういうことか考える前に、車の振動に任せて意識がとろりと沈んでいった。