前奏曲にしては重すぎる執着愛でした
薄暗い部屋。
それでも天井の木目をぼんやりと認識できるのは、枕元に設えられた間接照明のおかげだ。
寝ぼけまなこで見上げていると、木目が渦を巻いて落ちてきそうで慌てて目をつぶる。
もう一度そっと開けば、規則的な年輪を模した木目が整然と並んでいた。

「目が覚めたら知らない天井、なんてフィクションの中だけだと思ってた……」

ころんと横を向けば、埃など浮いていない畳が敷かれている。ここは和室のようだ。
そっと身を起こすとこめかみが痛む。まだ残る目眩に耐えながら顔を上げれば、私のバッグが枕元に置かれていた。

「ああ」

安堵の吐息が漏れる。
手早く中身を検めるが特に物色されたような跡も無い。財布やスマホも手つかずだった。
だが、念には念を入れて探していると、ファスナーポケットの奥からピルケースが出てきた。
不測の事態に備えて常備薬が入れてあるのだ。やはり薬を丸ごと忘れた訳ではなかったとわかって力が抜ける。

「ええと、いつもの風邪薬は……うん、ある」

今が何時だかわからないけれど、とりあえず服用しておくに越したことはない。
しかしこの状況だ。
おそらくあのスーツの男性に連れて来られたと予測するものの、ここが何処なのかもわからないし、何の目的でここまで丁寧に扱われているかもわからない。
今のところ、すぐには危害を加えられることもなさそうだが、この部屋を出てもそれが続くか保証がない。
逃げるにしても靴がない。さて、ここからどうするべきか──と考えを巡らせ、痛むこめかみを押さえたところで。

「目が覚めたのか」

四角く差し込んだ明かりの中央に、見覚えのある体躯が立っていた。

「…………あ」

さっきまで逃げるだなんだと算段を立てていたにも関わらず、声を掛けられただけで身が竦んだ。

どうしよう。
何をされるの?

口の中が一気に渇いて言葉が出ない。

彼が電灯を点けると、部屋の中が一気に照らされて目が眩む。
咄嗟にバッグのファスナーを握りしめた。
しかし──彼は私から一畳分離れて座った。

「気分はどうだ」
「え、あ……はい、その」

どくどくと心臓の鼓動が耳の辺りで低く揺れている。
何か答えなくてはいけないのに、彼の佇まいから目を離せなかった。

きっちり整えられた黒い短髪。
皺の刻まれた眉間。
彫りが深く凛々しい眼差しは、こんな時でなければ映画俳優並だと黄色い声をあげたいくらいに目力があって、雄の迫力に満ちている。
雨に濡れたスーツを着替えたのだろう着流し姿は、袷から色香が滲むようでくらくらした。鎖骨の下には鮮やかな曲線がちらりと覗いて素肌に影を落としている。
厳しい和服の美丈夫に似合い過ぎるあれは──まさか?

そこで、ふ、と吐息が聞こえた。
あまりに何も喋らない私に痺れを切らしたのか、端正な表情がふと綻ぶ。
苦笑しているのだと気づき、少し緊張の糸が緩んだ。

「傘は預かって干しているが他の荷物には触れていない。ここは離れだから最低限の人員だけだ。部屋を出て左が洗面所だ。まだ夜中だからもうひと眠りするといい」
「──は、はい。ありがとうございます」

傘のことをすっかり忘れていた。
それにスマホを見たくせに時間すら頭に入っていない。改めて腕時計を見れば、3時を過ぎたところだった。
かなり動転しているのだと痛感して、彼の配慮にただ頭を下げるしかできなかった。
そんな私とは違い観察力に優れているであろうその鷹の目は、私の手元に注がれていた。

「薬を飲むなら水を用意させるが」
「はっ、はい。お願いします」

彼が立ち上がり襖を引くと、細長い光が差し込んでくる。
部屋の外に誰かいるようで、何やら二言三言交わすとすぐに盆を持って戻ってきた。
畳に滑らせたそれには水差しと湯呑みが乗っている。

「すみません、頂きます」

薬をケースから出す仕草を見られている。パキリとフィルムから押し出す音すら静か過ぎる部屋にはよく響き、居た堪れない気持ちになりながらも何とか飲み下した。

「水は置いておく」
「はい。あの、どうして、私を」

熱に浮かされた頭でもそれだけは聞いておきたい。
すると、彼は先程の苦笑とはまた少し違う種類の笑みをうっすら口元に浮かばせた。

「律さん、まだその話には早い。養生することだ」

教えた覚えのない名前をさらりと呼ばれて目を丸くする。やはりあの時、名前を呼ばれたのは幻聴ではなかった。
私の反応が面白かったのか、彼は軽く何度か頷いて立ち上がった。襖を引く前に首だけで振り向く。

「申し遅れた。俺は橘鷹臣(たちばなたかおみ)という。覚えてくれたら嬉しい」
「たちばな、さん」

こくこくと頷きながら繰り返せば、幼子が初めて歩く様を見るようなまなざしを向けられる。
「消すぞ」とひと言置いてから電灯が消されて、再び間接照明だけの頼りない明るさに戻った室内に、橘さんのシルエットが浮かび上がった。

「おやすみ、律」

静かに閉められた襖を黙って見つめる。
はたと我に返ってピルケースをしまい直してファスナーをきっちり端まで閉めると、ひとりになれた安堵感と、少なくとも今すぐに危害が及ぶことは無さそうな見込みで、全身から力が抜けた。
お水をもうひと口飲んで横になる。
鷹のような目をしたひとは、やはり名前も鷹なのか──と愚にもつかない感想が回る脳内では、それ以上深く考えることができないまま眠りに誘われた。
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