前奏曲にしては重すぎる執着愛でした
目が覚めると午前11時を回ったところだった。

「うそっ、寝すぎでしょ……」

よくこの状況で爆睡できたと逆に不安になるが、薬を飲んで眠ったおかげなのか、あのどうしようもない目眩は消えていた。
そっと部屋を出て、昨夜教えてもらった洗面所に向かう。
だがやはり本調子ではなく、足元がふらつくものだから、壁に手を添えながら慎重に足を進めた。
寝汗をかいたのか首筋が湿っていて、襟がまとわりつくのが不快だ。
洗面所の扉は施錠できる仕組みになっていた。
ランドリーラックに畳まれた浴衣とタオルが置かれている。
その上にメモが乗せてあった。

『好きに使いなさい 橘鷹臣』

……………至れり尽くせり過ぎませんか。

洗面台の隣に見える磨りガラスの向こうは浴室だ。
知らない男性のいるお宅で、流石にそれは無防備過ぎると自分を窘める。が、ここまできたらどうにでもなれとヤケになれる状況でもあった。


湯けむりに霞む鏡を指で拭う。
疲れた顔の自分がそこにいた。
こんな顔であの美丈夫──橘さんと会話していたかと思うとやりきれない。
はあ、とため息をついて浴室から出て身なりを整える。
これからどういう話が待っているのかびくびくしながら洗面所を出て、部屋に向かえば──廊下の角でピンク頭と鉢合わせた。

「あ、おねーさ……うおわっ!?」
「ひえっ、な、なに!!」

姿を見るなり、オバケでも見たかのような悲鳴を上げて蹲られたらこっちまで悲鳴が出た。
せっかくさっぱりしたのに冷や汗をかいてしまった。ばくばくとうるさい胸を押さえながら、彼のつむじを見下ろす。

「ど、どうしたの。具合でも悪いんです……?」
「や、ほんと、マジでオレのことはお構いなく。つーかこっち見ないでくださいヤバいんで」

またヤバいのか。
便利なようで何も伝わらない言葉だと、この数時間で痛感させられている。
必死に顔を覆って首を振り続ける彼が心配になって辺りを見渡していると、かすかな足音と共に橘さんが現れた。
濃紺の着流しに薄い灰色の羽織。モノクロの出で立ちは、静かで威厳に満ちた水墨画を思い起こさせた。

「律さん、起きられたのか。……風呂はどうだった」

ビロードのような、という形容がここまで似合う声も珍しいのではないだろうか。
この声で睦言でも囁かれたら崩れ落ちる女性が続出しそうだ。必死に膝に力を入れて自分を叱咤する。

「おかげさまで汗を流せました。お心遣いありがとうございました」

ひとまずはお礼を言わねばと深くお辞儀をしていると「頭を上げなさい」と優しく諭され姿勢を戻す。
太陽光が射し込む中で見上げると、やはり鎖骨の下に流麗な曲線がいくつか見て取れた。アクセサリーの影でも、見間違いでもない。これは人の手による──

「こちらの不手際なのだから、気に病む必要はない。食欲があるなら粥でも用意させようか」
「い、いえ、そこまでして頂かなくとも」

話しかけられてはっと我に返る。どんどん長逗留にさせられそうで、ぶんぶん顔を振って手で遮っていると、遠慮するなと笑われた。

「昨日の経緯も話しておきたいし、律さんにも聞きたいことがある。食事がてら如何かな」

有無を言わさず押し切られて、頷くより他ない。

「話は決まったな。……おいモモ、聞いていただろう。罪滅ぼしに働いてこい」

途端にドスをきかせる低さで橘さんが声をかければ、床に蹲っていたピンク頭は子犬のようにきゃいんと鳴いて跳び上がった。

「誤解っすよ! 別にオレ、おねーさんの風呂上がり狙って来たわけじゃねーですし! 鉢合わせたけどすぐ目ぇつぶりましたから! ねっ、おねーさん!!」

鳴き──否、吠えがてら切羽詰まった釈明を並べ立てるピンク頭が、両腕で顔を覆いながら同意を求めてきた。私の方を向いて話しかけているつもりなのだろうが、見えていないせいで若干見当違いな方向へ喚きたてている。
この釈明のおかげで、この奇行が私の湯上がりを見ないようにしている配慮なのだと気がついた。彼はどうやら気遣いが更なる誤解を産むタイプらしい。

「そ、そうですね。悲鳴を上げるなりこうだったので、寧ろ私が失礼を……」
「や、おねーさんがしでかしたとかホントありえないっすから。オレだってやらかしてないし。無実、無罪、潔白、白旗!」

……最後のは違うのでは?

まくしたてられて勢いに呑まれていると、橘さんはしっしっと犬でも追い払うようにピンク頭を追いやる。
その仕草は見えていないにも関わらず、彼は気配で察知したのか、顔を覆ったまま廊下の向こう側へ脱兎のごとく駆けて行った。
姿が見えなくなるより先に「うるせぇぞモモの字!!」と知らない男性の怒号が聞こえて私まで跳び上がりかけたが、橘さんが安心させるように手のひらで制してくれた。

「騒がしくてすまないな」

苦虫を噛み潰したような顔で橘さんが詫びるものだから、居たたまれずに首を振る。

「い、いえ。びっくりしただけで……彼はモモくんとおっしゃるのですか?」
「ああ。桃次郎(とうじろう)というんだがあの髪の色だからな。すっかり桃太郎で通っているよ」
「私も初めてあの髪を見た時は、ちょっと面食らいました」
「だろうな」

他愛もない会話の最中、湯冷めしてはいけないと背中に手を添えられて、部屋へ戻るように促される。
知らないお宅で現実離れした美丈夫にエスコートされている。これが事実だとようやく認識してくらくらしていると、軽い咳払いと共に彼がゆっくり口を開いた。

「……本当に見られていないな?」
「え?」
「いや、見る──というより厭らしい視線を向けられていないな? 鉢合わせしたそうだが、その際に無防備な状態にならなかったか? 不快に思わせたなら言って欲しい。“指導”しておく」

矢継ぎ早に質問を重ねられて、返事をする思考が追いつかない。
桃次郎くんと鉢合わせた時は何も無かった。ぶつかってもいないし、落とし物もない。それに彼は私の姿を見るなり悲鳴を上げてしゃがんだのだ。傍から見ていたら私の方こそ、彼を不快にさせた張本人ではないだろうか。
そう伝えれば、橘さんは顎に手を当てて一度頷いた。

「成程。ありもしない加害感情を抱かせたという訳か。指導しておこう」
「えっ、いや、わたし、そこまで言ってな……」

私がやらかしたとすれば正にこの瞬間なのではないだろうか。桃次郎くんに対してのみ、だけれど。
穏やかな口調なのに一切の訂正を受け付けない鉄の防御に屈した私は、おとなしく橘さんにエスコートされて部屋に戻ったのだった。
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