前奏曲にしては重すぎる執着愛でした
部屋の中は出て行った時のまま、何も配置が変わっていない。
あえて角度をつけて畳んだ掛け布団はそのままだし、念の為、触られてもすぐにわかるようにバッグの持ち手に腕時計のベルトを通しておいたが、動かした形跡はないようだ。

「きみの許しがなければ触れないさ」
「す、すみません」
「いや、警戒心は持ち過ぎて困るものでもない。ましてこの状況だ」

さりげなく確認していたもののバレバレだったようで気まずいが、彼は気分を害した様子もない。
バッグから引き抜いた腕時計をはめ直していると、橘さんはそれに目を留めたらしい。

「いい時計だな。きみの腕に馴染んでいる。長く使っているのか?」
「え、ええ。音符とか、音楽のモチーフが好きなので。一目惚れして買ったんです。もう三、四年くらい経つと思いますけど……」
「ほう? それにしてはなかなかの状態だ。手入れはマメにしているのか?」
「えっと、たまに軽く拭いているくらいで大したことは……」

なんなんだこの会話。緊張をほぐそうとしてくれているのだろうか。
彼に尋ねられるがまま、この腕時計を買った時のことを思い出す。
友達に誘われて展示会に出かけた先で、まだ立ち上げたばかりのこのブランドに出会ったのだ。
友達はお目当ての天体モチーフのアクセサリーに目がないようだったので、ひとりでブースを見学していたところに飛び込んできた五線譜。あれは運命の赤い──否、黒い糸だったのかもしれない。
そんなことを思い出すがままにとりとめなく語っていると、心なしか橘さんの相槌がトーンダウンした気がして、喋りすぎたかと顔色を窺う。
そして、小さく喉を震わせた。

湖畔の夜を思わせる静かな昏い瞳。
私の出方を見定めようというのか、眼差しの下でゆるりと弧を描く唇の端は、強者の余裕に満ちていた。

「……お時間を頂いているのにつまらない話をお聞かせしてすみません。いくつか質問があります」

彼の顎が僅かに上がる。話せということだろう。

「ここは何処ですか」

胸元で手を握りしめて問えば、彼は淡々と住所を答えた。車を使えば職場からそうかからない場所だ。

「表札には出ていないが私の住まいだ。別の住居もあるが、きみを休ませるにはこちらの方が近く、都合も良かった」
「……わたしの、ため?」
「ああ。発熱して意識が混濁していただろう。ここなら万が一のことがあっても、うちの医師を呼べる」
「うちの? お医者さんのお宅なのですか」
「いや。お抱え医師とでも言おうか。どうにも世話になる者が後を絶たない仕事なのでね」

それは橘さんなりの私を気遣った婉曲表現だったのだろう。しかし──はっきりさせておきたかった私は、意を決して口を開いた。

「……サツに、警察に見つかると良くないと桃次郎くんが言ってました。落とし前がどうとかも。それに、その、橘さんの──それ、刺青、ですよね……」

彼は襟元を押し開いてそれを露わにする。ああ、フィクションでしか見た事のない図柄がそこにある。
もうこれで充分決定打だったのだが──毒を食らわば皿までだと覚悟を決める。唇を一度噛み締めてから開いた。

「あの、不躾な物言いで申し訳ないのですが、ここは──反社会的勢力、いわゆるヤクザさん……のお宅、なのでしょうか……」

踏み込みが浅い癖にそのものズバリな発言をしてしまった。
迂闊だったかもしれない。
けれど、このくらいでどうにかされるようなら、最初から私はあの工事現場に置き去りにされていたはずだ。
そう後付けで理論武装したけれど、生唾を飲み込むことすら躊躇う空気の中、終わりのない息苦しさを愉しむように、橘さんは音もなく微笑んで髪を掻き上げた。

「ご名答だ」

こんなにも当たって欲しくない予想はなかった。
肯定されると事実の重さに目の前が白くなってくる。熱がぶり返したのかもしれない。

「周りの態度で気づいただろうが、私はこの橘家を背負う立場の者だ。だからと言って、構成員ではない律さんがそう畏まる必要はない。楽に接してくれて構わない」
「こ、構成員……」

日常会話で使わないタイプの単語だ。社員とかスタッフとかクルーとか、そういうオブラートに包んで欲しい──と、自分で切り出しておいて泣き言を言いたくなる。
ドスとかチャカとか抗争とか──フィクションでしか縁のない世界のひとなのだろうか。
しかも家を背負うということは……それ以上は考えたくなくて思考を逸らした。
そんなひとが、よりによって、どうして私を。

語尾だけが知らずのうちに漏れていたのか、「教えてやろうか」と低い声音で彼が身を乗り出す。
きっちりと着付けられていた襟元がたわんで、鎖骨の下に描かれた模様がくっきり見えた。生々しくそれが刻まれた肌を目の当たりにした途端、動揺して正座が崩れた。
座っていた布団に手を突かれる。
テリトリーに踏み込まれて心許ない私がつい背を反らすと、それを追うように彼が身を近づけた。
横座りも崩れて仰向けに倒れ込む。投げ出された腕は袖がめくれて、畳のつるりとした感触を素肌で感じた。

「ずっと──きみにこうすることを望んでいた」

覆い被さってきた彼の腕は、私を閉じ込める檻のようだ。服の上からでもわかる逞しさと体温に言葉が出てこない。

「きみは覚えていなくとも、私はあの日からきみを──小日向律を忘れたことは一日たりとてない」

何を、言ってるの?

明るい陽の光を受けた部屋にいるのに、彼の表情は影に隠れて見えない。
ただ、黒い瞳の奥にぎらぎらと主張する光は、紛れもなく欲を含んだ男性のものだ。

「……っ」

射すくめる視線から、暴こうとする腕から逃げたいけれど、身を捩ることもできずに、せめてもの抵抗で、顔をぐいと背けて目をつぶった。
唯一の拒絶がこれなのだから心許ない。
しかし──これは裏目に出た。

「白いな」

言葉になりきらない吐息を思わせる囁きが首筋に落ちる。

「きみの許しがなければ触れないつもりでいたが──据え膳食わぬというのも、なかなかに耐え難い……」

言外に許せと命令されている。
しかし、ここで頷こうものなら本当の意味で貪られるのは目に見えていた。
ふるふると小刻みに首を横に振って拒絶する。そうしているうちに動くようになった体をえいと引き寄せて、胎児のように丸まった。

すると、体の下で引っかかっていた浴衣の帯が、無理に体を動かしたことでほどけてしまう。
戒めを失った布地はたわんで、いつでもその守りを放棄できるようにぐにゃぐにゃとその輪郭を変えてしまう。

「……ほう?」
「あ、や、これは……」

自分で自分の体を守るようにぎゅっと抱き締めて浴衣を着込む。なるべく肌を見せないようにと固く胸の前で袷を握り締めたが、これでは体の線を強調してしまうのかと気づいた頃には遅かった。

「布をひらひらと揺らして雄を煽る──大したマタドールだな」

ふ、と吐息が耳にかかる。ぞくんと腰が跳ねて小さな声が漏れた。

熱い。

体の奥が、どうしようもなく熱い。
求められて、貪られる予感に目の奥が潤む。
このままでは流されてしまう。
嫌なのに、いっそそうなってしまえば楽になれる──だなんて望む自分もいるなんて認めたくない。
けれど、首筋にかかる髪をそっと除けられて彼の指が、直接──

「お待たせしゃーしたっ! お粥できたんで持ってきました!」

場違いな程に明るい声が頭に響く。
土鍋を掲げた桃次郎くんが、足で襖を開けていた。
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